平成24年4月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               御在世の信徒に学ぶ D
                   四条金吾殿 二
  今回は、竜の口法難の時、刑場までお供をされた不惜身命の振る舞いを中心として、四条金吾殿について学んでいきたいと思います。

  孝養の志
 前回、文永八(一二七一)年七月十二日の『四条金吾殿御書』の御文から、四条金吾の母も大聖人様に帰依していたことを紹介しました。四条金吾の母は既に他界されており、当御書は、母の命日に当たり大聖人様のもとへ御供養申し上げると共に、追善回向についてご質問をされた四条金吾に対する返書として認められたものです。
 大聖人様は、盂蘭盆会の由来となった目連尊者の追善供養について述べられた後、四条金吾の母は「法華経の行者」であると称賛され、その成仏を断言されています。同抄末には、
 「日蓮讃歎したてまつる事はものゝかずならず、諸仏所歎と見えたり。あらたのもしや、あらたのもしやと、信心をふかくとり給ふべし」(御書 四七一n)
と仰せられ、四条金吾の信仰を励まされています。大聖人様からの種々のお手紙を通して正義感の強い一途な性格が窺えると共に、深い孝養の志を拝することができます。

  第二の国諌
 さて『四条金吾殿御書』が認められた文永八年は、蒙古の使者がたびたび日本を訪れるなど世情も緊迫の度を増す中で、五月頃から全国的な大干ばつとなっていました。
 すると六月に入り、幕府から祈雨の修法を命じられた極楽寺良観に対して、大聖人様は仏法の正邪を知らしめるために、祈雨の修法を始めて七日の内に雨が降れば大聖人様が良観の弟子となり、降らなければ良観が法華経に帰依せよと約定を示されたのです。当然、祈雨は良観の惨敗に終わりましたが、卑怯にも良観は大聖人様との約束を守らず、翌七月には、諸宗の僧等と結託して行敏という僧侶を大聖人様と問答させようと謀り、ついには問注所に訴状を提出するに至りました。
 九月十日、これらの讒言によって大聖人様は評定所へ召喚され、平左衛門尉頼綱の尋問を受けることになりました。この尋問の場で大聖人様は頼綱を厳しく諌められ、さらに二日後の十二日には『一昨日御書』を送り、
 「抑貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし」(同 四七七n)
と、直ぐに法華経に帰依するよう重ねて諌められたのです。
 しかし頼綱が聞き入れることはなく、同月十二日の夕刻、兵を率いて松葉ケ谷の草庵に押し寄せました。頼綱の家来である少輔房は、大聖人様が懐中されていた法華経第五の巻を奪い取り、その経巻で大聖人様の頭を三度にわたって打ちすえるに及びました。第五の巻には、末法に法華経を弘通するならば刀杖の難に遭うと説かれた『勧持品』が収められており、大聖人様は後年、少輔房を経文符合の恩人であると仰せになられています。
 このとき大聖人様は頼綱等に向かって、
 「日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失ふほどならば、日本国のはしらをたをすになりぬ」(同一〇一九n)
と大音声で呵責されました。
 これが『立正安国論』の提出に次ぐ、第二の国諌です。頼綱等は大聖人様の気迫と威厳に圧倒されましたが、ようやく捕縛して連行したのです。


  竜の口法難
 松葉ケ谷の草庵から、重罪人のように鎌倉の街中を引き回され評定所へ連行された大聖人様は、頼綱より佐渡配流を言い渡されました。しかしその内実は、ひそかに大聖人様を斬罪に処するとの決定でした。
 深夜、竜の口の刑場へと護送される途中、鶴岡八幡宮の前にさしかかったとき、大聖人様は馬から下りられ八幡大菩薩を叱咤されました。また由比ケ浜を通り過ぎ、御霊神社の近くまで来た所で、熊王丸を使いとして遣わし、四条金吾に事の次第を知らせました。
 知らせを聞いた四条金吾は裸足のまま、直ちに兄弟たちと共に大聖人様のもとに駆けつけ、斬首のときには自らも殉死するとの覚悟で馬の口に付き従い、竜の口の刑場までお供をしたのです。
 竜の口に到着し緊張が高まり武士たちも騒然とする中、四条金吾は思わず、
 「只今なり」(同一〇六〇n)
と言って号泣されました。その姿を御覧になった大聖人様は、
 「不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそくをばたがへらるゝぞ」(同n)
と、かねてより御教示の不惜身命の覚悟を促され頸の座に悠然と端座されました。
 こうして太刀取りが刀を振り下ろそうとしたその時、突如、江ノ島の方角から月のような光り物が現われ東南より北西へと光り渡ったのです。太刀取りは人の顔が見えるほどの強烈な光に目が眩み倒れ伏し、大聖人様を取り囲んでいた武士たちも恐怖におののいて逃げ惑い、あるいはひれ伏すなど散々なあり様でした。大聖人様が武士たちに呼びかけても、驚きと恐怖で近づくことすらできなかったのです。
 結局、斬首は取りやめとなり、大聖人様一向は依智の本間邸へと入られ、ここまで付き従ってきた四条金吾兄弟もひとまず鎌倉へと戻られました。


  発迹顕本
 この法難について大聖人様は『四条金吾殿御消息』に、
 「相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におとるべしや。(中略)竜口に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(同 四七八n)
と仰せられています。
 大聖人様は竜の口法難を縁として凡夫日蓮としての迹を払われ、久遠元初・凡夫即極の御本仏と顕われたのであり、これを末法の発迹顕本といい、これ以後、末法の御本仏日蓮大聖人としての御化導が開始されたのです。
 この大事の中の大事に、深い因縁あってお供をした四条金吾に対して、大聖人様は『崇峻天皇御書』に、
 「返す返す今に忘れぬ事は頸切られんとせし時、殿はともして馬の口に付きて、なきかなしみ給ひしをば、いかなる世にか忘れなん。設ひ殿の罪ふかくして地獄に入り給はゞ、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給ふとも、用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし。日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ」(同 一一七三n)
と、地獄に堕ちることは絶対にあり得ず、必ずや成仏するであろうと、殉死を決意されるほどの志を賞讃されております。
 四条金吾は、まさに私たち法華講員が鑑とすべき不自惜身命の信行、仏様に命を奉るという志を示してくださったのです。
 次回は、大聖人様佐渡期以降における四条金吾のお姿を通して、難を乗り越える信心の大事を学んでいきたいと思います。