平成24年3月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               御在世の信徒に学ぶ C
                   四条金吾殿 一
 前回までは、三回に分けて、大石寺開基檀那である南条時光殿のご生涯を拝し、法華講員のあるべき信心の姿を学びました。
 今回は、南条時光殿と共に大聖人様御在世中の檀越の中でも、鎌倉において中心的存在であった四条金吾殿について学んでいきます。
 一般的に四条金吾と呼ばれることが多いのですが、正式には四条中務三郎左衛門尉頼基と称します。四条家は藤原鎌足の後裔と伝えられ、それより十八代目に当たる四条隆季が初めて四条の姓を名乗ったとされています。鎌倉時代には父親の官職名を子供の名前の上に付けて呼ぶのが通例になっていて、中務とは父の頼員の官名で中務小丞に任じられていたことからこのように称します。三郎は通称です。左衛門尉とは、衛門府の中にある官名と位で、衛門府には左衛門と右衛門があり、諸門の護衛や出入を管理する役職のことを指します。その左衛門尉の唐名を金吾校尉というので四条金吾と通称されました。頼基は名前です。
 四条金吾の父、中務左衛門尉頼員は承久の乱後、北条氏の一門である北条朝時に仕えました。北条朝時は、鎌倉の名越に居を構えたことから、「名越殿」とも称されます。また朝時の嫡子・北条光時にも仕え、四条金吾も父の後を受けて光時に仕えた鎌倉武士です。
 主君である北条光時は寛元四(一二四六)年の春頃、時の執権であった北条時頼から陰謀の嫌疑をかけられ、伊豆の江馬というところに流されたことから「江馬殿」と称するようになりました。この時、数百人いる家臣のほとんどが心変わりし、逆境にあった光時から離れていきました。その中でただ一人四条金吾の父、中務左衛門尉頼員は忠誠を貫き、伊豆までお供したのです。このことが『頼基陳状』に次のように記されています。
 「故親父\[中務某\]故君の御勘気かぶらせ給ひける時、数百人の御内の臣等、心がはりし候ひけるに、中務一人最後の御供奉して伊豆国まで参りて候ひき」(御書 一一三四n)
 その後、光時は赦免されて鎌倉へ戻り、再び幕府へ出仕するようになりました。
 四条金吾の父、中務左衛門尉頼員に代わって、四条金吾が光時に仕えるようになったのはこの頃からだと言われています。
 主君の江馬光時は、文永九(一二七二)年にまたもや謀反の嫌疑をかけられました。
 この事件は、八代執権の北条時宗の命により、謀反を企てたとして北条氏嫡流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された「二月騒動」のことです。江馬光時も名越一族として謀反人の一味であるとの嫌疑をかけられ、事件に巻き込まれました。


 『頼基陳状』において、
 「頼基は云ぬる文永十一年(正しくは文永九年。文永十一年は伝写の誤りと思われる)二月十二日の鎌倉の合戦の時、折節伊豆国に候ひしかば、十日の申時に承りて、唯一人箱根山を一時に馳せ越えて、御前に自害すべき八人の内に候ひき」(同一一三四n)
と記されるように、この時、四条金吾は主君の一大事を聞いて、ただちに伊豆の地から馬を走らせ、天下の険たる箱根山を一気に越えて鎌倉へ馳せ参じ、主君光時と共に切腹せんとする八人衆の中に数えられました。
 幸いなことに主君の嫌疑は晴れ、事なきを得ました。
 初めの伊豆流罪の御勘気の時は、多くの家臣が心変わりし離れる中で、父の頼員がお供をし、また、文永九年の「二月騒動」の時は四条金吾が命がけで主君に忠誠を尽くしました。このように親子二代にわたって主君に忠誠を尽くされたのです。
 文武両道に秀で、さらには医術の心得がある四条金吾は、当然のことながら主君の覚えはめでたく、数多家来のいる中でも特別、目をかけられていたことは言うまでもありません。
 しかし、その一方で四条金吾の性格が裏目に出ることもありました。四条金吾の人物像を御消息文から拝すると、正義感の強い一途な性格の持ち主で間違ったことを許すことができなかったり、また要領よく立ち回ることができず短気を起こすことがあったようです。それが災いして同僚から讒訴されたり、疎んじられるようなこともありました。
 大聖人様は、四条金吾のこのような性格を心配され、信心面だけではなく、ふだんの生活についても細やかな御指導をされています。
 大聖人様の御慈悲によって、四条金吾は、多くの逆境と困難を乗り越えていきました。

  四条金吾の入信
 さて、大聖人様と四条金吾の出会いは、いつ頃か定かではありませんが、大聖人様が建長五(一二五三)年四月二十八日に宗旨建立された後、鎌倉に向かわれ、名越の松葉ケ谷に草庵を構え、本格的に弘教を開始されてから二、三年後に、工藤吉隆や池上宗仲らと共に入信したものと考えられます。
 四条金吾は入信以来、大聖人様に信伏随従し外護の誠を尽くしました。特に文永八年九月十二日の竜の口法難の時には、馬のくつわに取りすがり、死を覚悟してお供したことは有名です。


  四条家の入信について
 父の頼員は、四条金吾が大聖人様に帰依する以前の建長五年に他界しています。
 頼員の夫人、すなわち四条金吾の母は池上氏の娘であったと言われ、父・頼員死去の後、母・子共に大聖人様に帰依していたものと思われます。文永八年七月十二日の『四条金吾殿御返事』に、四条金吾の母を、
 「妙法聖霊」(同 四七〇n)
と称され、
 「法華経の行者なり日蓮が檀那なり」(同n)
と仰せられています。
 兄弟については、『種々御振舞御書』に、
 「左衛門尉兄弟四人馬の口にとりつきて、こしごへたつの口にゆきぬ」(同 一〇六〇n)
と竜の口法難の際、四条金吾の他に四人の兄弟が、竜の口の刑場に連行される大聖人様にお供したことが記されていることから、四条金吾に続いて、兄弟四人も大聖人様に帰依していたことが伺えます。しかしながら、他の兄弟たちは、四条金吾が様々な難に遭う中で、次第に信心から遠ざかっていきます。
 また、四条金吾の妻は日眼女といい、四条金吾と同様に信仰心が篤く、『四条金吾殿女房御返事』において、
 「しかるにさゑもんどのは俗のなかには日本にかたをならぶべき物もなき法華経の信者なり。これにあひつれさせ給ひぬるは日本第一の女人なり」(同 七五七n)
と仰せになられています。
 四条金吾の子息については、大聖人様は建治三(一二七七)年七月の『四条金吾殿御返事』に、
 「とのは子なし」(同 一一六二n)
と家督を継ぐべき男子はいなかったことが推察されますが、文永八年五月八日の『月満御前御書』に、女児が誕生し、大聖人様はその子に月満御前と名づけられ、福子の誕生にたいへんお喜びになられたことが示されていることから、四条金吾に娘がいたことが推察できます。
       ◇
 次号ではいよいよ四条金吾が師弟相対して不惜身命の信心を貫く姿と難を乗り越える信心について学んでいきたいと思います。