平成24年2月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               御在世の信徒に学ぶ B
                   南条時光殿 下
 苦難を乗り越えて

 南条時光殿には、五郎という六歳違いの弟がいました。五郎に対面した大聖人様は、
 「肝ある者かな、男なり男なり」 (御書 一四九六n)
と評され、時光殿と共に南条家を支える立派な青年として期待されていました。
 しかし弘安三(一二八〇)年九月五日、五郎は不慮の事故で亡くなってしまいました。
 五郎の死は、南条家の悲劇であったばかりでなく、身延(山梨県身延町)にいらした大聖人様も、
 「人は生まれて死するならいとは、智者も愚者も上下一同に知りて候へば、始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし、我も存じ人にもをしへ候へども、時にあたりてゆめかまぼろしか、いまだわきまへがたく候。(中略)まことゝもをぼへ候はねば、かきつくるそらもをぼへ候はず」(同n)
と、あまりのことに何と書いてよいのか判らずにおりますと仰せられています。
 しかし、また、
 「さは侯へども釈迦仏・法華経に身を入れて候ひしかば臨終目出たく候ひけり」(同n)
と仰せられ、大聖人の仰せのままに法華経を信仰しているのであるから、たとえ不慮の事故であっても、必ずや成仏したであろうと述べられております。
 大聖人様は残された母の後家尼に対して、四十九日のお手紙で、「乞ひ願はくは悲母我が子を恋しく思し食し給ひなば、南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひて、故南条殿・故五郎殿と一所に生まれんと願はせ給へ」(同 一五〇九n)
と心温まる御言葉をかけられると共に、いよいよ証大菩提のために御題目を唱えていくよう励まされています。
 南条時光殿や後家尼は、大聖人様の御言葉と共に、五郎の不慮の事故死という大きな悲しみを受け止め、菩提を弔うと共に、いよいよ信仰に励んでいったのです。

  病を乗り越えて

 しかし、全国的に猛威を振るった疫病が、弘安四年の夏頃に時光殿を襲いました。五郎の死に続いて、南条家に苦難が降りかかったのです。弘安五年二月頃、時光殿の病はにわかに重くなってしまいました。
 「時光病篤」の報せは、すぐに大聖人様のもとに伝えられました。大聖人様は、御自身も御病気が続いており、おそらく満足に筆を御持ちになれない状態だったのでしょう。弟子の日朗に代筆を命じて日興上人への書状を認めさせ、御秘符を託されたのです。
 しかしその三日後、大聖人様は病の体を押して筆を執り、『法華証明抄』を認められました。
同書では、
 「鬼神めらめ此の人をなやますは、剣をさかさまにのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか。(中略)永くとゞめよ永くとゞめよ。日蓮が言をいやしみて後悔あるべし、後悔あるべし」(同 一五九一n)
と、
 「法華経の行者 日蓮」(同 一五九〇n)
として、南条時光殿を悩ます鬼神に病を治すように強く命じられています。
 こうして大聖人様の御祈念と日興上人の激励を受けて、時光殿は強盛な病魔を退散せしめ、さらに五十年の寿命を延ばしたのです。

  大聖人御入滅後の門下

 弘安五年十月十三日、御本仏日蓮大聖人は、一期の御化導を終えられ、武州池上(東京都大田区)の地にて御入滅されました。
 二箇の相承書に明らかなように、日興上人は大聖人様の後嗣として門下を統率される御立場となりました。
 同年十月二十五日、日興上人は、大聖人様の御灰骨を捧持して身延へと帰山されました。
 大聖人様は、兼ねて六人の本弟子(六老僧)を定められておりましたが、次第に日興上人と他の五人の老僧の間に様々な対立が生じていきました。
 日興上人の在す身延は、日興上人の門下の手によって、大聖人様御在世と同じく清浄な信仰を護っていました。
 しかし、弘安八年、六老僧の一人である民部阿闍梨日向が身延に登山し、居住するようになると、次第に状況が変わっていきました。
 仏法に厳格な日興上人を師と仰いでいた身延の地頭・波木井実長が、軟風で甘い民部日向の教導により、大聖人様の教えに背く考えに染まり、謗法を犯すようになったのです。
 日興上人は、その都度、民部日向と波木井実長を教導され、正しい信仰の姿勢に戻そうとされましたが、二人共聞き入れることはありませんでした。そして、日興上人は、大聖人様の仏法を護るため、身延を離れることを決意されたのです。
 『原殿御返事』には、
 「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え(中略)日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候」(日蓮正宗聖典 五六〇n)
とあり、日興上人の御心労が推し量られると共に、身延離山の並々ならぬ御決意が拝されます。

  身延離山と南条時光

 正応二(一二八九)年春、日
興上人は、お弟子方を伴い、身延山を降りられ、御自身の縁をたよって、一旦、河合(静岡県富士市)の由井入道の許へ身を寄せられます。
 報せを聞いた南条時光殿は、富士上野(静岡県富士宮市上野)の地への移住を懇ろに請い願い申し上げました。
 日興上人は、この南条時光殿の請いにしたがって、河合の地より上野の地へと移られ、ひとまず現在の下之坊に滞在されたのです。
 南条時光殿は、早速、北方に広がる大石が原に日興上人をご案内し、大石が原を寄進すると共に、大石寺建立に尽力されました。
 正応三(一二九〇)年十月、こうした僧俗一致の努力によって、大石寺が建立され、以来幾星霜、宗祖大聖人様の仏法を厳護する根源の霊地として、私たちの信仰のよりどころとなっているのです。

  その後の南条時光殿

 時光殿は、その後、左衛門尉の名乗りを許され、ますます充実した日々を送っていたと推測されます。
 また地元の伝承では、総本山のある上野が、時光殿らの指揮のもとで開発が進み、田地が広がっていきました。
 晩年には、所領を子供らに譲ると共に、正和五(一三一六)年頃には、入道して大行を名乗りました。
 その生涯に多くの子宝に恵まれた時光殿ですが、晩年には妻や兄弟などに先立たれます。
 特に妻妙蓮の一周忌に当たっては、自邸を寺院として寄進し、妙蓮寺としました。
 そして元弘二(一三三二)年五月一日、大行は家族に見守られて、七十四歳で亡くなられたのです。
 已来、毎年五月一日には、南条時光(大行)追善供養の法会である大行会が奉修されています。
 大行尊霊の廟所は、現在の下之坊の西に位置しています。廟所付近からは、雄大な富士山を遠望し、自身の治めた上野、そして総本山大石寺を望むことができます。
 大行没後六百八十年、大行尊霊は、現在の総本山の立派な堂宇、そして、日本乃至世界中の信徒が登山し、血脈付法の御法主上人猊下の御指南のままに広宣流布に向かって進みゆく法華講衆の姿を、必ずや称歎されていることでしょう。
 私たちは、この南条時光殿の尊い信仰の姿を鑑として、御法主上人猊下より賜った御命題を達成すべく、御住職と共に精進してまいりましょう。