平成23年11月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               御在世の信徒に学ぶ @
                   南条時光殿 上
 日蓮大聖人様の御在世当時、大聖人様から直接御教示を賜った信徒方がどのような姿勢で信仰をしたのか、また大聖人様はどのように信徒を教導されたのか。私たちが「大聖人様の御教示を拝し御意に適った信心」をする上でそれらを深く知ることが大切です。
 例えば、竜の口法難において、竜の口の刑場へ向かう大聖人様にお供した四条金吾殿の不惜身命の信心や、念仏の強信者で法華経の信仰を頑なに反対していた父を大聖人様の御教示通りに辛抱強く折伏し、ついには正法に導いて最高の孝養を尽くした池上宗仲・宗長兄弟の信仰、そして大聖人様が佐渡に御配流の最中、厳しい監視の目をくぐってお給仕申し上げ、身延へ御入山された後は、九十歳になんなんとする高齢にもかかわらず三度目の登山を果たされた阿仏房の信心、さらには、熱原の三烈士のように、命を賭して正法を護り抜いた死身弘法の姿など、すべてが生きた鑑として、私たちに正しい信心の在り方を教えています。
 また、私たちにとって決して忘れてはならない大檀越がいます。それは、総本山大石寺の開基檀那である南条時光殿です。
 今回は、この南条時光殿の生涯を通して、信心の基本を学んでいきたいと思います。


  はじめに
 南条時光殿は、総本山大石寺開創の大功労者であり開基大檀那です。
 時光殿の信行上の功績については、到底ここで述べ尽くせるものではありませんが、概略を述べてみます。
 まず、身延に入山された大聖人様への御供養は、五十余通にも及ぶ南条家が賜った御書が物語るように、御在世当時の信徒の中でも群を抜くものであり、どのような時でも定期的に継続されていました。水の流れるがごとき不退の信心と、厚い外護の姿を知ることができます。
 また、本門戒壇の大御本尊御建立の契機となった熱原法難に際しては、日興上人の指揮のもとに信徒の中心者として、僧俗外護の大任を果たし、数多の在俗の中でただ一人、二十一歳の若さで、大聖人様から「上野賢人殿」との称号を賜りました。
 次に、特筆すべきことは、大聖人様の御入滅後、五老僧等は一様に大聖人様の教義信仰を曲げ、一同に二祖日興上人に背反してゆく中で、大聖人様に対し奉るのと少しも変わらぬ信心で外護され、血脈の仏法を厳護されたことです。すなわち民部日向と波木井実長の謗法により、身延を離山された日興上人を富士上野の地へお迎えし、戒壇の霊地、大石寺を寄進されたことは、末法に永遠に輝く大功績であり、今日もなお信仰の鑑と仰がれています。
 それは、過去帳にも南条時光殿の命日である一日の項に「総本山大檀那 大行尊霊」と記されていることからもそのお徳を拝することができます。
 また、長姉(蓮阿尼)は新田五郎重綱殿に嫁した第三祖日目上人の母であり、娘も新田家へ嫁して第四世日道上人の母となっています。さらに、別の娘は、奥州三迫森(現在の宮城県登米市)の加賀野家へ嫁して第五世日行上人の母となっています。第六世日時上人・第八世日影上人・第九世日有上人も南条家出身の方々であり、このように南条家一族から多くの御歴代上人が出られており、一族を挙げて、大聖人様の仏法の内護・外護に尽くされたことが拝されます。

  時光殿のご両親と生い立ち
 私たちは普通一般に、南条時光殿を、上野殿、時光殿、南条殿とお呼びしますが、正確には南条七郎次郎平時光殿と称します。
 今から、七百五十二年前の正元元(一二五九)年、駿河国・富士郡上方の庄・上野郷(現在の静岡県富士宮市上条・下条・精進川・馬見塚等一帯。総本山大石寺、本山妙蓮寺などの周辺地域)の地頭であった南条兵衛七郎殿の次男として生まれました。
 父兵衛七郎殿は、北条家の御家人で、はじめ伊豆国南条郷(現在の静岡県伊豆の国市)の地頭でありましたが、後に上野郷の地頭に転任して下条の地に邸宅を構えました。当時、政治の中心地であった鎌倉に在って、幕府に出仕していたときに、縁あって、大聖人様の教化を受けて入信されたと思われます。時期としては、大聖人様が伊豆御配流を赦免となって、鎌倉に戻られた弘長三(一二六三)年二月から翌文永元(一二六四)年秋頃になります。
 文永元年十二月、入信後間もなくして、兵衛七郎殿は重篤の病にかかり、上野郷の自邸で療養に努めておりました。このことを聞かれた大聖人様は、書状を御認めになられました。それが『南条兵衛七郎殿御書』(御書三二一n)
です。文永元年という年は、大聖人様が御年四十三歳、伊豆御配流赦免の翌年であり、また故郷、安房国小松原において、東条郷の地頭・東条景信奉いる武装した数百人の念仏者に襲われ、弟子の鏡忍房と有力信徒であった工藤吉隆を失い、御自身も右の額に生涯消えることのない深手の傷を負われた「小松原の法難」が勃発した年でもあります。
 この御書を拝しますと、兵衛七郎殿が重病を患っていること、また兵衛七郎殿が大聖人様の正法を聞いて念仏を捨て法華経に帰依してはいるけれども、いまだ強い信心に立っていないことが判ります。この御書において大聖人様は、教・機・時・国・教法流布の前後の五義判を説示して、念仏の執情を捨てて唯一無二の信心をもって法華経を受持し抜くことを諄々と諭されています。
 後に時光殿に与えられた御書に、
 「故親父は武士なりしかどもあながちに法華経を尊み給ひしかば、臨終正念なりけるよしうけ給はりき」(御書 七四五n)
と仰せられ、大聖人様の御教導通りに、念仏への思いを断ち切り、正法への信仰を貫き、翌年三月八日見事な臨終正念の相を示して亡くなったのです。
 兵衛七郎殿死去の報告を受けた大聖人様は、上野の南条家を弔問され、墓参をされたことが、後年の『春之祝御書』(御書七五八n)に記されています。
 大聖人様は兵衛七郎殿の人柄を高く評価されていました。その兵衛七郎殿の死去を深く悼み、はるばる鎌倉より上野郷の墓に詣で御回向されたのです。突然の大聖人様の御下向に、南条家の驚きと感激は計り知れません。
 時光殿の母は、駿河国庵原郡松野に住した松野六郎左衛門の娘ですが、南条家に嫁いでから兵衛七郎殿の間に五男四女と多くの子供に恵まれ、兵衛七郎殿の逝去の折には末子の七郎五郎を身ごもっていました。
 働き盛りの夫を亡くし、しかも身重の夫人が、領地を守り六人の幼子を育てていく苦労はたいへんであったと思われます。
 兵衛七郎殿の死去の後は、時光殿の母は「上野殿後家尼御前」「上野尼御前」等と呼ばれるように尼となって、夫の追善供養に励まれました。夫兵衛七郎殿の見事な臨終正念の信心の姿に、夫人が妙法の信仰を受け継ぎ、そして残された子供たちへと継承されていきました。
 時光殿をはじめとする兄弟の純真な信仰は、このご両親に基づいていることは言うまでもありません。
 次回は、いよいよ時光殿が南条家の主体となって信心に励まれる様子を紹介します。