平成23年9月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
                育成について I
  真心からの御供養 2
  布施と供養

 そもそも供養には「供給奉養」との意義が存し、仏法僧の三宝を崇敬し報恩の真心から信仰の志を奉ることで、供施・供給・供ともいいます。
 それに対して世間では、神仏に対して志を奉ることを「お布施」と称する場合が多くあり、皆さんも耳にされたことがあると思います。
 「布施」とは、もとは食物などを受けた後、それに報いるため法を説くことを言い、現在では施される金品のことを指す言葉です。菩薩の修行である六波羅蜜の第一に布施波羅蜜がありますが、そこには衣食などを施す財施・教えを説き与える法施・種々の恐怖から免れさせる無畏施の三種施が示されています。


 また、法華経の開経である無量義経の『十功徳品第三』には、
 「諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ」(法華経 三五n)と、妙法蓮華経を唱えることにより得られる様々な功徳の一つとして「布施の心」、すなわち貪りの心が人に施しを与えようとする心へと変わるということが説かれています。
 こうして見ると「お布施」も尊い行いのように感じますが、なぜ日蓮正宗では必ず「御供養」と申し上げるのでしょうか。
 このことについて御法主日如上人猊下は、
 「けっして『お布施』という言葉は使いません。(中略)布施という言葉には『施す』という意味がありますけれども、私どもは御本尊様に捧げ奉るという意味から、『御供養し奉る』『御供養申し上げる』と、このように言っているのであります」(功徳要文 一四n)
と、はっきりと御指南あそばされています。
 特定の人に施すのではなく、あくまでも仏様にお供えする、「御本尊様に捧げ奉る」との意から「御供養」の語を用いるのが本宗の在り方なのです。

  種々の経論に示される供養
 「供養」の語は、古くは身体的行為について言われていたものが、後に精神的な側面も含む意味となっていきました。経典には、供養の方法や対象によって様々な分類がなされており、『十住毘婆沙論』等に説かれる「二種供養」や、『法華文句』に示される身口意にわたる「三業供養」等が例として挙げられます。
 前回の当コーナーでも、雪山童子・薬王菩薩の求法を通して、日蓮大聖人仰せの「事理の供養」を学びました。意味は異なりますが、この事供養・理供養との立て分けは他の経論にもあります。
 一つは、『大日経供養法疏』に説かれる、香華等を具する事供養と真実の道理に適って悟りに入るとの理供養からなる二種供養。
 そしてもう一つは、天台大師が『摩訶止観』の第七に、
 「財と法の布施を行ずるとき自他共に利益を得、事と理の布施が具足する。事とは慳貪の法を破して能く財物を施すこと、理とは慳貪の心を破して能く法を施すことである(趣意)」(学林版止観会本下 一五〇n)と示される、事理の供養です。
 この天台大師の事理の供養を受け、さらに末法の御本仏としての御境界より示されたのが「聖人の事供養」に対する「凡夫の理供養」であり、私たちが心がけるべき御供養の根本精神なのです。

  御供養は日頃の信行から
 大聖人は『国府尼御前御書』に、
 「『若し毀謗せん者は頭七分に破れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん』等云云。釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。又濁世に法華経の行者のあらんを留難をなさん人々は頭七分にわるべしと」
 (御書 七三九n)
とお示しになられています。
 御本尊様を拝しますと左方の讃文に「有供養老福過十号(供養すること有らん者は福十号に過ぐ)」と認められていますが、末法の正しい三宝に供養するならば、仏様が具えるとされる十種の徳よりも大きな功徳を積むことができるとの御示しです。
 各家庭におけるお仏壇の荘厳等について学んだ際にも触れましたが、御本尊様へのお給仕は、すべてが仏道修行であり御本尊様への供養となります。
 法華経『法師品第十』に示される、
 「種々に華香、瓔洛、抹香、塗香、焼香、衰W、憧幡、衣服、伎楽を供養し、乃至合掌恭敬 せん」(法華経 三一九n)
との「十種供養」をはじめとして、木樒や抹香をもって仏を讃歎供養することが説かれていますが、毎日真心からお給仕をすることは自らの仏道修行であると共に「福過十号」との大きな功徳を積む因となる、御本尊様への御供養ともなるのです。
 御法主日如上人猊下は、先ほどの『国府尼御前御書』の御文を御講義される中で、
 「なぜお釈迦様を供養するより、末法の法華経の行者である日蓮大聖人様を供養する功徳のほうが勝れているか、それは大聖人様が久遠元初の仏様すなわち末法の御本仏であられるからなのです。今日、我々が大聖人様に供養し奉る信行を立てることこそ、一番尊いことになるのであります」(功徳要文二七三n)
と御教示せられました。
 日蓮大聖人が末法の御本仏であらせられるとの確信のもと日々の勤行・唱題・お給仕等に励むとき、その積み重ねによって信心も深まり御報恩謝徳のための御供養の大切さが自ずと身についていくものです。
 総本山第二十六世日寛上人は『報恩抄文段』に、
 「問う、報恩の要術、其の意は如何。答う、不惜身命を名づけて要術と為す。謂わく、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、即ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり」(御書文段 三八四n)
と、最も大切な御報恩謝徳とは不惜身命の折伏行であることを御教示せられています。
 自行化他の信仰を実践し、法供養・財供養共に励むことが正法伝持と広宣流布の願業成就への道であることを心に留め精進してまいりましょう。