平成23年5月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
                育成について E
御本尊様へのお給仕は真心を込めて

  御本尊御下付

 御本尊様は信仰の対境であり、成仏得道には欠かすことのできない功徳の根源です。
 御本尊御下付は御授戒後、本人が御本尊様を守護し御安置できる状況であれば、その願い出により下付されます。下付とは、総本山より末寺を通して、お貸し下げされるということです。『経王殿御返事』に、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書 六八五n)
と仰せられているように、御本尊様は御本仏日蓮大聖人様の御魂魄であり御当体です。したがって、御本尊様を我が家に御安置することは、生身の大聖人様をお迎えすることと同じであり、真心からのお給仕を心がけることが大事です。
 また、御本尊様を御安置する際には、原則として御僧侶の導師により入仏式を行います。

  御本尊様の御安置とお給仕

 御本尊様を御安置するためには仏壇が必要ですが、仏壇にはいろいろな種類のものがありますので、それぞれの事情と状況に応じて用意するといいでしょう。仏壇の大きさや機能・素材などにとらわれる必要はありません。
 仏壇は、住居の中で最良な場所を選び、勤行のときに御本尊様が目の高さより、やや上方に拝することができるように置きます。また仏壇の上に物を置いたり、額を飾ることは厳に慎むべきであり、仏壇とその周辺は常に清潔にしておくよう勤めましょう。
 総本山第五十九世日亨上人は『有師化儀抄註解』に、
 「『行体』とは水を汲み華を摘み菜つみ薪とりより始めて・其外日常の業務なり、事行の本宗にては行体が肝心なり、一信二行三学の順序はあれども、行体なくんば信心を彰はすに由なく・講学を積むも詮なきものなり、然るに吾等動もすれば・布教の急なる為に講学の忙がしき為に・事務の劇なる為により、報恩給仕読経拈花の行体を等閑に付せんとする事あり・慎まざるべけんや」
と信心の実践を重んじる当宗は何よりも行体が大切であることを御示しになられ、日常のお給仕が大切であることを教えられています。
 毎朝、仏壇を拭き清め、お水・仏飯をお供えし、樒の水を換え、また勤行の時に灯明をつけ、香を焚くことは、すべてが仏道修行であり、御本尊様への供養となるのですから、どんなに忙しくても怠ることのないよう、勤めてまいりましょう。

  如在の礼

 日興上人は信徒よりの御供養の品々をそのつど大漫荼羅御本尊と日蓮大聖人様の御影像が御安置された御宝前にお供えされていたことが、御手紙よりうかがえます。一例を挙げれば、
 「御経日蓮聖人の見参に申しまいらせ候」
 「法華聖人の御見参に申し上げまいらせ」
 「仏聖人の御見参に申し上げ」
等との御文が多数見られます。
 日興上人は大聖人様の御入滅後も、三世常住の仏として大聖人様が常におわしまし、御説法・御化導あそばされているとの思いで、大漫荼羅御本尊並びに大聖人御影に御供養・お給仕されました。これを「如在の礼」と言います。
 現在、総本山や由緒ある一部の寺院等を除いて大聖人御影の御安置は見られませんが、私たちもまた、寺院にあれ、各家庭にあれ、御本尊様が在すところ常に御本仏大聖人様がおられるとの思いをいたし、「如在の礼」をもってお給仕・勤行できる信心をしたいものです。

  お仏壇の荘厳(三具足・五具足)

 御本尊様の前を御宝前と言い、華立て・香炉・燭台の三具足を置きます。
 華立てにはお樒を挿しますが、常緑樹である樒は仏様の徳が常住不滅であることを表し、その香りは清浄にして不浄を清めると言われています。
 香炉には線香を寝かせて焚き、その香を御本尊様にお供えします。
 燭台にはろうそくが用いられ、その灯明を御本尊様にお供えします。
 三具足のほか、華立てと燭台を左右一対にする五具足を供えても構いません。
 法華経に
「木樒」「抹香・塗香・焼香」などをもって仏を讃歎供養することが説かれているように、これらの仏具をもって御本尊様を荘厳し、香りや灯りを御供養することで大きな功徳を積んでいけるのです。

  毎日真心を込めて

 御本尊様へのお給仕は毎日のことだけに、つい形式的になりがちですが、そこに具わる意義をよく理解し、報恩謝徳の一念を込めたお給仕に勤めることが大事です。
 大聖人様が『一生成仏抄』に、
 「仏の名を唱へ、経巻をよみ、華を散らし、香をひねるまでも、皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(御書 四六n)
と仰せられているように、御本尊様へのお給仕は、そのまま我が身の功徳善根ともなるのですから、毎日の勤行と共に必ず実践してまいりましょう。

  根本尊敬の大事

 「各家庭の御本尊」は、御本仏日蓮大聖人様の御内証の法体を唯授一人の血脈によって相伝される御歴代上人が、根源の法体たる本門戒壇の大御本尊様の御内証を書写して下付される御本尊様です。
 したがって血脈相伝の教えに信順し、本門戒壇の大御本尊様を信ずる一念を持って拝むならば、書写された御本尊様もその功徳に変わりはありません。
 しかし、信仰が戒壇の大御本尊様から離れ、また血脈相伝の教えから離れるならば、いかに各家庭の御本尊様を拝んでも功徳は生じません。
 誤った信仰観から、罪障を積むことになるのです。
 したがって、いつも家で御本尊様を拝んでいるからといって、血脈の筋道を軽視して、総本山への登山や、地域の法城たる寺院への参詣を疎かにすることは、信仰の基本を見失った姿であり、正しい信仰とはならないのです。
 本門戒壇の大御本尊様が根本の法体であるということは、本門戒壇の大御本尊様あってこその各寺院・各家庭の御本尊様であるということにほかなりません。ですから私たちはいずこにあっても、朝夕の勤行において「本門戒壇の大御本尊」への御報恩謝徳を申し上げるのです。本門戒壇の大御本尊様が御安置される場所である「事の戒壇」の意義を正しく知り、それを拝信することによってこそ、各寺院や各家庭の「義の戒壇」の意義が発揚され、真の成仏が叶うのです。
 私たちは、常に本門戒壇の大御本尊様と唯授一人血脈付法の御法主上人猊下の御指南を中心とした信心に立ち、御本尊様に真心からの勤行・唱題・お給仕に勤めてまいりましょう。