平成22年12月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
                育成について B
  前回は、日蓮正宗に入信して間もない方への育成について、以下の三点に集約して述べました。
 まず第一に御本尊を受持させること、そして信仰の根本である勤行・唱題の奨励、最後け折伏のできる人材に育てることです。
 今回は、寺院参詣と講中活動を実践する人材を育成することについて、学んでいきます。

  善知識に交わる大切さ
 日蓮正宗に入信しても、初めはなかなか支部に馴染めない人もいます。また組織活動が嫌いで、御本尊を受持して心静かに信仰をしたいので御報恩御講の参詣や座談会、勉強会、折伏などの活動や行事に参加したくないと、思う人も多いようです。あるいは、法華講の組織に頼らなくとも、必要な時にはお寺に行って御住職・御主管に相談すればよいので、組織の指示を受けたり、講頭をはじめとする在家の人の激励などは受けたくないと言う人もいるでしょう。
 このような独り信心≠願う人には、正しい信仰をしていく上で「善知識」に交わることが大切であることを教えてあげましょう。
 「善知識」とは正しい仏道へ誘い導く師匠や同志、機縁となるものを言います。根本の「善知識」とは末法下種の三宝のことですが、ひいては本門戒壇の大御本尊を信じ、御法主上人猊下に随って仏道に精進する僧俗すべてを指します。

 『衆生身心御書』には、
 「麻の中のよもぎ・つゝの中のくちなは・よき人にむつぶもの、なにとなけれども心もふるまひも言もなをしくなるなり」(御書 一二一二n)
と仰せです。この御文は、麻の中に生えた蓬が麻と同じように真っ直ぐに成長するように、また、蛇が筒の中にいると否応なく真っ直ぐになっているように、善知識との交わりを深めれば、振る舞いも言葉も善知識と同じように丁寧になり、信心もまた素直な確信に満ちたものとなる、との意味です。
 これと同じように、大聖人様の仏法を修行する者同士が、お互いに広宣流布という高い理想に向かって精進するとき、一人ひとりが互いに善知識となって境界を高め合う間柄になるのです。
 大聖人様は『三三蔵祈雨事』に、
 「仏になるみちは善知識にはすぎず」(同 八七三n)
と仰せになられています。一生成仏をめざす私たちにとって、善知識が集う本宗の寺院こそ、大聖人様の正しい信仰を教わり、実践し、信心を磨く道場であり、その寺院に参詣して、同志と共に信仰の活動をしていくことが成仏への道であることを教えていきましょう。
 大聖人様は『蓮盛抄』に、
 「凡そ世間の沙汰、尚以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧ろ輙く自己を本分とせんや」
 (同 二九n)
と仰せられています。世間法でさえ大事に当たってはよき相談相手を求めるのに、仏道にあって自分一人孤立し、その自己中心の心を本分として、大聖人様の正しい信仰を貫けるはずはありません。
 入信の日以来、指導教師である御住職・御主管のもとに信心を磨き、支部の一切の人々がお互いに啓発し合い助け合いながら信心を深め、報恩感謝の信心を学びます。そうして、広宣流布に向かって精進していくために寺院と法華講の組織があるとの認識を持つことが大切です。
 その上から、善知識の同志として正しい信心の向上を図れるように諭し、激励し、細やかに面倒を見ながら、その信心を守り・育てていくべきです。

  寺院は異体同心の信心を培う道場
 寺院は、大聖人様の御遺命である広宣流布大願成就のために、僧俗和合して信行学に励むべき法城です。
 大聖人様は『生死一大事血脈抄』に、
 「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。(中略)若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か」(同 五一四n)
と仰せです。私たちは常に自らの信心に濁りはないか、大御本尊に対する潔い信心に任しているかということを省みて、お互いに切磋琢磨するためにも所属寺院に集い、ここを法城とし信心活動の拠点として、指導教師の御指導のもと僧俗一致して進んでいくところに、広宣流布の大願成就への道があることを教えていきましょう。
 また、一人ひとりが大聖人様から与えられた広宣流布の使命を全うするときに自己の幸福も自ずから叶うという意識を共有して、広く信心活動の参加を呼びかけ、展開していきましょう。

  寺院とは信心錬磨の道場
 日蓮大聖人が『一代聖教大意』に、
 「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(同 九二n)
と仰せのように、教学は世間の学間とは異なります。信心を根本として、御講、勉強会等で指導教師の御住職・御主管から教えていただくことが大切です。
 『新池御書』に、
 「此の僧を解悟の智識と憑み給ひてつねに法門御たづね候べし」(同 一四六一n)
と御指南の通りです。
 信は行学を起こし、行学は信を深めます。教学によって仏法の裏付けとなる道理が判ってくると、仏法に対する確信が深まり、しっかりとした行体になっていきます。また、独断や偏見のない正しい信仰の在り方や、折伏・弘通に必要な知識も身についてきます。
 教学を疎かにする姿勢であっては、しばしば我見をさしはさんで信心が狂ったり、難に遭ったときに簡単に退転することにもなります。素直な信心をもって寺院に参詣し、指導教師から直接、教学を学ぶことの大切さを教えましょう。
 また御講や御会式等、寺院の諸行事では、受付や誘導整理、寺域の清掃、行事の準備・片付け等を、自ら積極的に行うことも大切です。寺院のあらゆる行事を通じて、少しでも身の供養をさせていただこうというお給仕の精神を養い、自らの信心を錬磨することができます。すなわち寺院は、信心錬磨のための道場でもあるのです。
 また寺院の活動を通して、ほかの講員の悩みや苦しみを克服した体験、唱題によって大きく境界を切り開いた功徳の体験など、様々な信心によって勝ち取った功徳の実証を、見聞きすることができます。同信の仲間の功徳の実証は、それを見聞きしたほかの多くの法華講員の信心を奮い立たせ、一人ひとりの生命を蘇生させるような大きな力を与えることになります。
 私たち大聖人様の仏法を受持信行する者は、常に自らの信心を鍛え、励むことが大事ですが、そのためにも寺院における支部活動にはたいへん重要な意義があるのです。とかく怠惰に流されてしまいがちな凡夫の信心を蘇らせ、奮い立たせてくれるのが、支部の仲間の真摯な信心の姿勢です。その姿はお互いがお互いを模範として、それぞれに信心修行に励む糧となるのです。
 現在、平成二十七年の御命題成就に向けて、全支部が、一丸となって折伏誓願達成に日夜邁進しています。同時に総本山へのご登山、寺院参詣・講中活動を通して新入信者を育成し、互いに励まし合い、しっかりと支部講中の足腰を固め、一歩いっぽ着実に広布の大道を歩んでまいりましょう。