平成22年7月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
                御授戒の意義を学ぶ B
   持戒の意義について
 前回は、授戒の歴史について学びました。今回は、持戒の意義について、私たちの生活に当てはめて学んでまいりましょう。

  諸仏の教え
 法句経には、過去に出現した諸仏の教えとして、
 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄 其意 是諸仏教」
との偈文が説かれています。
 訓読すると、
 「諸悪を作すこと莫く 衆善を奉行し 自ら其の意を浄くする是れ諸仏の教えなり」
となります。
 これは七仏通戒偈と呼ばれる偈文ですが、ここに仏教の極めて基本となるべき教えが説かれているのです。
 すなわち、「諸悪莫作」とは悪いことをしてはいけない。「衆善奉行」とは善い行いをしなさい。「自浄其意」とは心を浄くしなさい。これらが諸仏の教え「是諸仏教」であるということです。
 決して悪いことをせず、努めて善い行いをし、心を浄くする。小さな子供でも判ることですが、これを実行することは、大人でも難しいことです。

  戒を持つとは
 さて、比丘戒の中には、食事の作法や日常の生活などの微細にわたる戒条もあります。その「制戒因縁」によれば、当時の比丘の振る舞いが国王・大臣等のように尊大であったり、牛馬等のように不作法であるという指摘があって、釈尊が戒められたようです。
 宗祖日蓮大聖人様は、『崇唆天皇御書』に、
 「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」(御書 一一七四n)
と仰せられていますが、戒を持つということは、仏道修行者・信仰者としての相応の振る舞いをなすことであると拝されます。
 例えば、入信してすぐの頃は、社会生活の中で、これはやってもいいのだろうかなどの疑問が生じることもあるでしょう。そうした時は、御僧侶にお伺いするなどして、大聖人様の仏法を基本とした対処の方法を教えていただきますが、こうした対処の方法なども、広い意味では戒であると言えます。
 つまり戒には、仏教を信仰し修行する者として、日常の生活はどのようにあるべきかという規定としての一面があるのです。

  末法の持戒と御授戒
 釈尊の説かれた戒律は、不殺生戒・不妄語戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不飲酒戒の五戒を基として、十戒・二百五十戒・五百戒・十重禁戒等があります。
 しかし法華経には、
 「此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり(中略)是れ則ち勇猛なり 是れ則ち精進なり 是れ戒を持ち 頭陀を行ずる者と名づく」(法華経 三五四n)
と、法華経を受持する人は持戒の者であると説かれているのです。
 さて、末法の今時においては、大聖人様が『教行証御書』に、
 「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為り。此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」(御書一一〇九n)
と御示しのように、文底秘沈の大法たる妙法蓮華経の五字にあらゆる戒の功徳が納まっているのです。
 したがって、この妙法五字を正直に信受することが法華経の持戒になります。この妙法信受の戒を金剛宝器戒と言い、三世の諸仏が成道された根源の妙戒なのです。
 これらの意義を踏まえると、正しく御授戒は私たちの信心の出発点であり、即身成仏の源となる尊い儀式です。
 すなわち、今世においては、未だ大聖人様の仏法を信仰せざる身であったのが、この御授戒によって本門の戒体を受け奉り、正法の信仰の道へと入る意義があるのです。


  善因善果・悪因悪果
 大聖人様が、『開目抄』に、
 「心地観経に云はく『過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ』等云云」(同 五七一n)
と心地観経の文を引かれて御示しのように、仏教では過去・現在・未来を通しての因果を説きます。
 つまり、過去の業=行いによって現在の自分があるのであり、現在の自分の業=行いによって未来の自分の姿が定まるのです。
 その大切な「現在」において、悪の結果を招く悪い行いを戒め、善の結果を招く善い行いをすることは、信仰の上からも、また生活を営む上からも大切です。
 善の行為とは、信仰の上からは御本仏日蓬大聖人様の仏法を信じて実践修行することであり、悪の行為とは、この日蓮大聖人様の仏法に背く謗法の行為を言います。
 つまり末法における持戒とは、この日蓮正宗の信仰を持ち、御本尊様を受持することを根本として、その功徳により謗法罪障を消滅し、善行である自行化他の修行に励むことを言うのです。

  御本尊様の御安置
 大聖人様は、『妙心尼御前御返事』に、
 「このまんだらを身にたもちぬれば、王を武士のまぼるがごとく、子ををやのあいするがごとく(乃至)一切の仏神等のあつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給ふ法にて候」(同 九〇三n)
と、御本尊様を受持することによって、私たちの日常が功徳に浴した生活となることを御教示されています。
 また第二十六世日寛上人は、加賀の信徒・福原式治に与えた書状の中で、
 「たとへ授戒候とも、本尊なくば別して力も有るまじく候」
と仰せられ、御授戒の後は、御本尊様を御安置して修行に励むことが大切であることを御教示されています。
 私たちの心は、固く決心したつもりでも、様々な縁に触れて揺れ動いてしまいます。ですから、御授戒の後は、自宅に御本尊様をお迎えすることが大切です。様々な状況によって、御本尊様を御安置できない場合は、御住職の指導に随って、できるだけ早くお迎えできるように努力しましょう。
 日夜、御本尊様に勤行して唱題するならば、たとえ様々な縁に触れたとしても紛動されない、確固とした人生を送ることができるようになるのです。

  謗法厳誡と育成
 以上のように、日蓮正宗における戒は、御本尊受持の金剛宝器戒が根本となりますが、実際に生活する上にも謗法厳誡などの守るべき規範があります。
 しかし、日常の中での地域の付き合いや、職場・学校行事等の場面で、様々な宗教的な事物と関わらざるを得ないとき、どのように振る舞えばよいのかという問題に直面することもあるでしょう。
 そのような時は、御住職に相談の上、適切に対処することが大切です。
 特に入信間もない人は、不慣れな点も多く、知らず知らずのうちに世間の風潮に流されてしまい、信仰上してよい事と、悪い事の区別が一人ではできないことが多いのです。しっかりと謗法の怖さ、信仰の道筋を教えて、育成していきましょう。
 大聖人様は、
 「譬へば海上を船にのるに、船をろそかにあらざれども、あか入りぬれば、必ず船中の人々一時に死するなり。なはて堅固なれども、蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなはてをかたむべきなり」(御書 九〇六n)
と仰せられ、固く謗法を戒められ、遂に正法の信仰をすることを御教示されています。
 また続いて、
 「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし」(同)
と仰せられるように、私たちの心得違いや不注意により犯してしまった過ちについて、信心を励まして滅罪することを御教示されています。
 私たちは、御本尊様を受持する根本の妙戒を持ち、唱題に、折伏に励んで、大きな功徳を積んでいくことが大切です。