平成22年5月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
                御授戒の意義を学ぶ @

  七宝の徳から
 宗門は今、新たなる御命題へ向けて、折伏が主体となった広布の闘いを始めています。
 その上で本年から折伏成果を御授戒・勧誡を受ける方の人数で数えることになりました。折伏目標も人数で誓願を立てます。御命題の平成三十三年、法華講員八十万人の体勢を築くという大きな目標に向かって、講員一人ひとりがその意識を持って折伏を行じ、増加を図っていくということから、このような方式となりました。
 そこで、御授戒の意義を様々な角度から拝し、数回に分けて掲載していこうと思います。

  七宝で飾られた宝塔とは
 『法華経法師品第十』に、
「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし」(法華経 三二六n)
と、法華経の在処には、必ず七宝をもって荘厳すべきことが説かれています。そして『見宝塔品』では、法華経が真実であることを証明するために多宝如来の在す大宝塔が涌出しますが、その宝塔は、七宝で飾られていたと説かれています。
 七宝とは、『法華経見宝塔品第十一』に説かれている宝塔を飾る金、銀、瑠璃、しゃこ、碼碯、真珠、すい瑰の七種の宝石類をいいます。
 日蓮大聖人様は、この七宝を私たちの実際の信行に当てはめられ、『御義口伝』に次のように御教示されています。
 「七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり(中略)今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは有七宝の行者なり」(御書 一七五二n)
 即ち、私たちが荘厳すべき七宝とは、宝石類ではなく、聞・信・戒・定・進・捨・慙という信心修行で得られる七つの徳をいい、それは身口意の三業にわたって自行化他の南無妙法蓮華経を行ずる法華経の行者に具わる功徳であると仰せられています。
 つまり、大聖人様は、妙法を信仰する者に対し、心・生命を、この七宝で飾りなさいと御教示されたのです。
 初めの「聞」とは、正しい仏法を素直に聞くことが、あらゆる功徳を得る一番の元であり、いわゆる聞法の功徳を最も先とします。
 次の「信」とは、わだかまりのない澄んだ心をもって、聞いた妙法を心に宿すこと、即ち疑いなきを信というのです。
 「戒」とは、法を正しく持つ上で、悪を捨て、善に進ませる戒法の徳、即ち防非止悪を旨とする仏道の徳を意味します。仏法には必ずこの戒が具わっています。
 したがって、日蓮大聖人様の御当体である御本尊様の御宝前において、爾前迹門の謗法を捨てて、三大秘法の御本尊様を一生涯受持することを誓う御授戒の儀式が信仰の原点となるのです。
 次の「定」とは、今まで謗法や悪縁によって煩悩が盛んになり、様々な迷いや苦しみが生じ、心が惑乱していたことが、妙法を持つ功徳により、真の心の安定を得る 次の「進」とは、懈怠や退転なく、まっすぐに道を進むことです。『方便品』には仏の勝れた行として、
 「勇猛精進」(法華経 八八n)
と説かれています。この「勇猛精進」とは、総本山第二十六世日寛上人が『依義判文抄』に、
 「『勇猛精進』は即ち是れ信心・唱題なり」(六巻抄 八九n)
と唱題、折伏に邁進することであると御教示されています。
 次の「捨」とは、誤った考え方に執着する心を捨てることをいいます。『方便品』に、
 「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(法華経 一二四n)
と説かれているように、爾前権教への執着を捨ててこそ、正しい仏法を信解できるのです。
 次の「慙」とは「心を斬る」と書きます。自らを省みて恥じることです。一つは自身の至らなさを恥じること、もう一つは犯した悪事を恥じることです。共に、善につけ悪につけ、自らの心を振り返り、妙法受持の功徳をもって、自分自身の慢心を恥じ、正していくことです。こうして自身を恥じる心があれば、自ずと素直な心になるのです。
 そうして素直な心に立ち返れば、また自ら進んで仏法を聴聞するようになり、正しい信心に住し、防非止悪という戒の徳が顕われるといった形で、我が身が聞信戒定進捨慙の七つの宝(七聖財)で荘厳された宝塔となるのです。
 『阿仏房御書』に、
 「末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり(中略)聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり(中略)かく信じ給ひて南無妙法蓮華経と唱へ給へ。こゝさながら宝塔の住処なり」(御書 七九二n)
と御教示されている通りです。
 つまり、この七宝の一つでも欠けたならば、我が身に南無妙法蓮華経の宝塔である仏身を涌現することはできません。
 その意味から七宝の一つである「戒」の徳を顕わすために御授戒が大切になるのです。

  御授戒の本義とは
 大聖人様は『教行証御書』に、
 「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為り。此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれど破れず。是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つべし」(同 一一〇九n)
と、あらゆる仏様の無量無辺の功徳を具えた御本尊に、あらゆる戒の功徳も納まっていることを仰せられ、この御本尊を受持することが戒を持つことになり、また御本尊を受持する妙戒には、絶対に破られることがない金剛宝器戒の戒体が顕われることを御教示になられています。
 前御法主日顕上人猊下は、御授戒の本義について、次のように御指南されています。
「皆さん方が信心の道に入るときに受ける御授戒の意義も、まことに深いものがそこにあるわけであります。すなわち、一度受ければ絶対に破れることのない戒なのです。たとえ地獄に堕ちてもこの戒体は破れない故に、金剛宝器戒と名づけられておるのであります。ですから必ず、この戒を受け、この金剛宝器戒によって大聖人の仏法を根本として信心修行に励むところに、本当の善悪のけじめがその根本から正されてきて、あらゆる罪障を消滅し、即身成仏しゆく道がある」(大日蓮 四六〇号)
 即ち、御授戒とは御本仏日蓮大聖人様から直接戒を授けられることですから、御本仏から受けた戒の仏種は絶対に破られることはありません。この御指南の通り、根本の仏種が本となって、あらゆる罪障を消滅し、即身成仏の道が開かれるのです。
 私たちは、御授戒にこのような大事な意義があることが判らず、盛んに「御授戒不要論」を唱えている創価学会をはじめ、ありとあらゆる邪義を打ち破り、平成二十七年・第二祖日興上人御生誕七百七十年の佳節に向けて、法華講員五十パーセント増をめざして、折伏に励んでまいりましょう。