平成22年4月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
                日興上人の御生涯に学ぶ 終
 
離山開教の徳と興学教導の徳について

 御開山日興上人は、宗祖日蓮大聖人様より唯授一人の血脈相承を受けられました。
 今回拝する「離山開教の徳」「興学教導の徳」は、本門弘通の大導師たる日興上人の令法久住・広宣流布へ向けた尊い御振る舞いを示すものです。

  離山開教の徳

 日興上人は、宗祖大聖人様の御霊骨を捧持して身延へ入山されてから、身延山を中心として教化弘教の指揮を執られました。
 これに対し、鎌倉の老僧方は大聖人様の一周忌・三回忌にも身延に登山せず、しかも弾圧から逃れるために次第に軟化していってしまいました。
 そうした中、弘安八(一二八五)年に民部日向が身延に登山し、これを喜ばれた日興上人は学頭に補されたのです。
 しかし、この民部日向は次第に不法の色が現われ、さらに日向の教唆によって、身延の地頭・波木井実長(日円)の信仰も軟化し、次々に謗法を犯すに至りました。
『富士一跡門徒存知事』によれば、波木井実長の謗法として、
一、立像一体仏の造立
二、箱根権現、伊豆権現、三島明神への社参
三、福士の念仏の塔建立に際する供養
四、九品念仏道場の建立供養が挙げられています。
 このように宗祖大聖人様の正意の御本尊を蔑ろにし、『立正安国論』の正意を破り、謗法への布施を行うことは、明らかに宗祖大聖人様の教義に背反する大謗法です。波木井実長は、これらの謗法行為に対する日興上人による慈悲の教導に憤慨し、ついには、
 「我は民部阿闍梨を師匠にしたる也」(日蓮正宗聖典 五六〇n)
と、自らの師匠である日興上人を否定するあり様でした。
 次に民部日向の所業については、波木井実長への謗法教唆のほかに、正応元(一二八八)年(身延離山の前年)の四月、諸岡入道の新築の祝いに邸宅に滞在し、八日に仏生日(釈尊誕生の日)と称して画師を招いて絵漫荼羅を画かせて称讃し、さらに同年の定例の大師講において、邪法邪義を退治せず、天皇及び大臣以下の文官・武官等の諸願/C写真 大石寺創建之図屏風 尾形禮正画 観清舎蔵(転載を禁じます)\n大石寺開創間近の様子。総本山第66世日達上人が大石寺開創700年を期して描かせたもの成就を祈る(国祷)非法の表白を行うなど、宗祖大聖人様の教義に反する謗法を犯し、ついに日興上人の戒告を聞き入れませんでした。このため、日興上人は、民部日向を、
 「世間の欲心深くしてへつらい諂曲したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずる仁」(同 五五八n)
と厳しく断じています。
 この民部日向や波木井実長の所業により、とうとう大聖人様の住まわれた清らかな身延の沢は謗法の地と化してしまいました。
 そのため、日興上人は、
 「聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候」(同 五六〇n)
との堅い御決意をもって、正応二年春、本門戒壇の大御本尊をはじめとする重宝の数々を持って、身延を離山されて、河合を経て、南条時光の治める富士上野の地へと参られたのです。
 そして、正応三年十月十二日、南条時光の寄進による大石寺へと入られ、末法万年にわたる令法久住・広宣流布の礎を築かれたのです。
 総本山第二十六世日寛上人は、富士山をもって本山と仰ぐべき理由を、
一、富士山は広宣流布の根源であるため
二、富士山は日蓮山とも称し、大聖人の本門の仏法の根源であるため
三、本門の大戒壇の霊場であるため
四、末法万年の総貫主の住処であるため
五、一閻浮提の座主の所住であるため
等と御教示されています(六巻抄六八n)。正しく日本第一の名山たる富士山こそ、大聖人様の、
 「霊山浄土に似たらん最勝の地」(御書 一五九五n)
 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同 一六七五n)
と御示しの地であり、正法の住する広宣流布の根源たる道場なのです。
 日興上人以来、代々の御法主上人が血脈を承け継がれ、富士の立義は大聖人の御義のままに今日に至るまで、総本山大石寺に流れているのです。
 このように、謗法の身延を離山して、富士に大石寺を開創し、大聖人の正法を護持された御徳を「離山開教の徳」と拝するのです。

  興学教導の徳
 日興上人は、大石寺を開創された後、日目上人に法を内付されました。またお弟子の諸師が次第に各塔中坊を建立し、正法を伝持する総本山としての整備が進められました。
 そして約八年後の永仁六(一二九八)年、日興上人は、大石寺を日目上人に任せて、東方の垂須に移られて学問所(談所)を開かれます。この垂須談所は門下で最も早期に開かれた学問所であることから、日興上人が、令法久住・広宣流布のためには人材の育成こそが急務であると、いかに心を砕かれていたかが拝されます。
 日興上人は重須の御影堂にて、大聖人様の御書や教義を御講義され、門弟の教育に励まれると共に、大聖人様の講説や口伝を筆受記録された貴重な文書を整理されました。
 やがて、この重須談所からは、全国を布教して数多の寺院を建立した大夫日尊師、広学多聞であった寂仙日澄師、『五人所破抄』を著して五一の相対を述べて日興上人の正義を顕揚した三位日順師などの俊傑竜象が現われるに至ったのです。
 このように、令法久住・広宣流布への広大な御構想のもと、門下早期の談所を開き、興学教導に心を砕かれた御振る舞いを、「興学教導の徳」と拝するのです。
 この興学教導の御姿を代々の御法主上人が承け継がれ、後に細草檀林や富士学林、大学科などの興学機関が整備され、今日においても御僧侶が信行学に切磋琢磨されているのです。

  日興上人の十徳を拝して
 これまで御開山日興上人の、
@常随給仕の徳
A筆跡第一の徳
B教化弘通の徳
C唯我与我の徳
D法門正受の徳
E法体付嘱の徳
F謗法呵責の徳
G諌暁継承の徳
H離山開教の徳
I興学教導の徳
と、十の御徳を拝してまいりました。日興上人の御精神は、どこまでも大聖人の仏法の正義を護り伝えると共に、広宣流布に向かって着実な歩みを進めようという、強い御信念にあると拝されます。
 そして、日興上人の『遺誡置文』の、
 「一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」(同 一八八四n)
との遺誡の通りに、正法正義を代々の御法主上人が承け継がれ、今日の総本山大石寺に厳として伝わっているのです。
 私たちは、この日興上人の御精神を胸に刻み、御法主日如上人猊下の御指南のままに、来たる平成二十七年の日興上人御生誕七百七十年の佳節に向けて、折伏弘教の実践に精進してまいりましょう。