平成22年2月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
                日興上人の御生涯に学ぶ B
 B法体付嘱の徳について
 日興上人の御徳を、前御法主日顕上人猊下が十徳として御挙げになりました。前回までに、その内の「常随給仕の徳」「筆跡第一の徳」「教化弘通の徳」「唯我与我の徳」「法門正受の徳」の五つの徳について拝してきました。
 今回は、第六番目の「法体付嘱の徳」について拝していきます。

血脈に連なる信心
 日蓮正宗の信仰をするうえで最も大事なことは、血脈に連なる信心をすることです。
 血脈とは、仏法が師匠から弟子へと正しく伝えられていくさまを、人体の血管が流れ連なることに例えて表した言葉です。私たちの生命を維持するうえで最も不可欠なことは、心臓から送られる血液が血管を通って全体に行き届き、循環することです。
 仏法とは仏の悟られた、一切衆生を救済する根本の教えですから、これを後世に正しく伝え、弘めることが何より大切であり、それは、あたかも心臓(下種三宝の当体)から送られる血液(血脈の法水)が、まず動脈(指導教師の住職・主管)へ流れ、それから毛細血管(全法華講員)にわたって、各臓器に通じ、それぞれの細胞を生かすようなもの(成仏)です。
 故に血管のどこかに欠陥があれば、不整脈が起きたり、あるいは詰まって破裂するなど、死に直結するような事態が起きるのと同様に、血脈(血管)が謗法という害毒によって詰まったり、断絶するようでは、功徳の法水(血液)は通いません。正しい血脈に連なる信心をもってこそ、本門戒壇の大御本尊からの功徳の法水を頂戴することができるのです。これを相伝仏法と言います。
 この血脈相伝の本源は正しく、「血脈の次第 日蓮日興」の唯授一人血脈相承にあります。



人法一箇を正しく拝された日興上人
 大聖人様は御入滅に当たり、二箇の相承をもって第二祖日興上人へ御自身の仏法の一切を相承されました。即ち本門戒壇の大御本尊をはじめとして、法体と法門を余すところなく日興上人へ付嘱されたのです。
 法体とは三大秘法惣在の本門戒壇の大御本尊の御事ですが、その御当体が正しく日蓮大聖人様であると信解された方は日興上人ただ御一人です。
 『南条殿御返事』に、
 「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉弾の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所、喉は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし。かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり」(御書 一五六九n)
と、大聖人様は結要付嘱の一大事の秘法の正体、三大秘法が御自身であるとの胸中の深意を明らかにされ、『経王殿御返事』には、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(同 六八五n)
と、大聖人様の魂魄たる南無妙法蓮華経を御本尊として顕されたことを御教示され、相伝書の『御本尊七箇相承』にも、
 「汝等が身を以って本尊と為す可し、明星の池を見給えとの玉えば、即ち彼の池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なり」(聖典 三七九n)
と大聖人様の御境智そのままが大漫荼羅本尊である深義が顕されています。
 また、大聖人様が法華経の深意について御講義づれたものを体信了解された日興上人が筆録された『御義口伝』には、
 「戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書 一七七三n)
と仰せられるように、法華経の行者日蓮の一身がそのまま三大秘法惣在の大御本尊の当体であると示されています。この御文は法即人に約されています。
 同じく『御義口伝』には、
 「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。寿量品の事の三大事とは是なり」(同 一七六五n)
と人即法として、久遠本因名字の妙法の五字七字の法体である三大秘法が末法の法華経の行者日蓮であることを御指南されています。
 ここからも日興上人が大聖人を法即人・人即法の御本尊として拝されていたことが明らかです。
 故に日興上人ただ御一人のみ、人法一箇の正しい御本尊としての意義を体され、「南無妙法蓮華経 日蓮」と書写されました。これこそ、大漫荼羅は日蓮大聖人様の当体であり、大聖人様が一切の仏法を総合統一する主体者であるとの信解を顕わされたものです。
 したがって、日蓮の御名が最も根本肝要であって、これを外した大漫荼羅は心の用きを失った人と同様、何の意味もありません。日興上人以外の五老僧は日蓮の御名を除いて、その位置へ自己の名を大書しています。



 これこそ不相伝であることを証明するものであり、大漫荼羅の当体を全く大聖人様より遊離し、別個のものとして考えていた証左です。
 また、大聖人様を人法一箇の御本尊と拝することができず、釈尊の仏像や絵像に執着していた五老僧に対し、日興上人は、『富士一跡門徒存知事』で次のように敢然とその邪義に対して破折されています。
 「聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり」(同 一八七一n)
 このように日蓮正宗の教義のすべては、日興上人の大聖人の大漫荼羅に対し奉る信解・相伝の中にこそ、一切が含まれているのです。
 したがって、私たちが大聖人様の仏法の功徳に浴することができるのは、ひとえに日興上人の厳格な仏法伝持の功績によることを忘れてはなりません。
 この日興上人が正しく法体を御受けあそばされた御徳に報恩謝徳申し上げ、平成二十七年・日興上人御生誕七百七十年の法華講員五十パーセント増の御命題達成に向かって、宗開両祖の御聖訓を身に体し、折伏弘教に精進してまいりましょう。