平成21年11月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
                日興上人の御生涯に学ぶ

 平成二十七年・二祖日興上人御生誕七百七十年の佳節へ向かうに当たり、日興上人の御精神と御振る舞いの相を拝していきます。今回は、前回の「常随給仕の徳」に続いて、「筆跡第一の徳」と「教化弘通の徳」を拝します。

筆跡第一の徳
 日興上人は、常に日蓮大聖人の膝下にあって信伏随従の範を示されましたが、それに付随して能筆の跡が拝されます。
『富士大石寺明細誌』には、
「儒書和歌を冷泉中将に問ひ、且筆道の秘を習ふ」
とあり、幼少の頃より書道の習練を積まれ、大聖人のお弟子の中でも抜群の能筆であられました。
 そのため大聖人の重要御書の書写をはじめとして、『御義口伝』の講記、『百六箇抄』『本因妙抄』の筆受等をあそばされ、さらには相伝書を数多く残されたことも、すべて日興上人の徳によるものです。そもそも大聖人が認められた書状を「御書」と称して拝されたのも日興上人です。
 日興上人以外の五老僧は『富士一跡門徒存知事』に、
「在家の人の為に仮名字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若しは俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に、施主分を書きて愚痴の者を引摂し給へり(在家の人のために仮名字で仏法の因縁をほぼ示し、またはわずかな供養を捧げた手紙への返書に、供養の内容とその功徳を書いて愚痴の者を仏道へと誘引されたものにすぎない)」(御書一八七〇n)
と、大聖人が信徒を御教導あそばされた御手紙を軽んじたのです。日興上人が御書を講義されることも、
「是れ先師の恥辱を顕はす」 (同)
として批判し、中には大聖人の御書をすき返して新たな紙として使ったり、中には焼き捨てる者すらあったと言います。「天台沙門」と号して、天台の章疏を尊び、仮名字の消息をさげすんで漢籍を崇めるあまり、五老僧の門下の中には、そうした所業に及ぶ者が実際にいたのかもしれません。
 それに対して日興上人は、十大部御書の選定をされると共に、御書の収集と筆写に努められ、現在に至るまで総本山には大聖人の御真蹟、日興上人書写の御書が多数厳護されています。
 大聖人は檀越方への御書中に、
「此の書御身を離さず常に御覧有るべく侯」(同 六七四n)
「この御文は大事の事どもかきて候。よくよく人によませてきこしめせ」(同 七四六n)
等と御教示せられ、「供養の返礼」にとどまることのない御意が拝されます。大聖人に常随給仕せられ、その御内証の仏法をことごとく付嘱され滅後の弘教を託された日興上人にとっては、これらの振る舞いは当然のことであったのです。
 大聖人が日目上人に与えられた御文に、
「日興に物かかせ日目に問答せさせて又弟子ほしやと思わず」(聖典 六五四n)
ともあり、大聖人の御化導の意義を末法万年に顕し奉る、深い徳功が拝されるのです。

教化弘通の徳
 日興上人は、常に大聖人の御化導を補佐されると共に、自らも檀越教導の足跡をたいへん多く残されています。
『春初御消息』の追伸に、
「返す返すははき殿一々によみきかせまいらせ候へ」(御書一五八八n)
と仰せられるなど、御消息文には大聖人のただし書きが付されているものがあります。この「ははき殿」とは日興上人のことであり、大聖人の御指示により、檀越方に対して御書を読み聞かせて、弟子檀那の教導に当たられていたことが伺えます。
 伊豆、そして佐渡へと二度の配流に際しても付き随い、給仕をされる傍ら現地の人々への折伏弘教に励まれ、特に遠く離れた佐渡の地が、長く日興上人門流としての流れを継いでいたことも、その徳の大なる相を顕しています。
 その他にも、御自身に縁の深い甲斐(山梨県)・駿河(静岡県)を中心とする各地に教化に赴かれました。
 大聖人が入山された身延の地頭である波木井実長も、日興上人の教化によって入信しており、入山を機に大井氏・秋山氏等の周辺豪族へと次第に弘教を拡大されて、そこから多くの弟子方が入門されました。駿河にあっては、後に大石寺開創の大檀那となった南条時光殿を中心に、特に蒲原・岩本と言った富士地方の弘教に心血を注がれました。
 建治年間に至ると、修学研鑚をされた四十九院の僧俗をはじめ一帯の寺僧・在家諸人に教化が拡大し、これを快く思わない謗法者の怨嫉を募らせるところとなり、結果、弘安元(一二七八)年の四十九院の法難、さらには同二年の熱原法難が起こったのです。熱原法難では、入信間もない農民たちが身命に及ぶ大難に遭いながらも、大聖人の御教示を仰がれた日興上人の御教導により正法護持の信心を貫かれました。
 大聖人は、この法難に立ち向かう弟子檀越の姿を鑑み、時機の到来を感ぜられて、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのです。
 日興上人の教化弘通は、地域の広範さはもちろんのこと、常随給仕する中で得られた、大聖人が末法の御本仏であるとの大確信に立たれ、七百五十年が経過してなお厳然と伝わる立正安国の実践の姿示されたことに、その深い意義が存するのです。
 総本山第二十六世日寛上人の『当流行事抄』に、
「六老の次第は受戒の前後に由り、伝法の有無は智徳の浅深に由る」(六巻抄一九七n)
と仰せになられていますが、大聖人の仏法を正しく受け継ぐ本門弘通の大導師としての御立場にあられたことを、弘教実践の御姿から拝することができます。

 折伏の実践
 『日興遺誠置文』の第一箇条に、「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」(御書一八八四n)
との御教示がありますが、まさに大聖人の御振る舞いを亀鏡として実践あそばされたのが、日興上人の御化導であります。
 御法主日如上人猊下は、
「日興上人は、『此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず』(御書一八八五n)とおっしゃっているわけです。ですから、一人ひとりが『末だ広宣流布せざる間は身命を捨て、随力弘通を致すべき事』ということを心肝に染めて、一生懸命に折伏を行じることが、我々の一生成仏にとって極めて大事なことであると思う次第であります」(大白法 七〇七号)
と御指南あそばされております。
 日興上人が後世のために収集・書写された大聖人の御書を拝し奉り、その折伏弘教の実践を鑑として、まずは本年の折伏誓願を完遂しましょう。
 そして折伏誓願成就を土台として、平成二十七年「すべての法華講支部が現在の議員数を五十パーセント増加すること」との御命題達成に向けて、自行化他・唱題折伏に精進してまいりましょう。