平成21年10月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
                日興上人の師弟相対の信心に学ぶ

新たな御命題を心肝に染めよう
 過日、「七万五千名大結集総会」において、御法主日如上人猊下より、新たな広布推進の御命題を賜りました。
 一つは、「平成二十七年・二祖日興上人御生誕七百七十年の佳節までに、すべての法華講支部が現在の講員数を五十パーセント増加すること」。
 二つ目は、「平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の佳節までに、法華講員八十万人の体勢を築くこと」。
 本宗僧俗は、この御命題を心肝に染めなければなりません。
 その上からまず、平成二十七年・二祖日興上人御生誕七百七十年の佳節に向かって、新たな広布推進の闘いを始める今、日興上人の御精神と御振る舞いを拝し、日蓮正宗の信仰の基本を学びたいと思います。

常随給仕の徳
 大聖人のお弟子が数多いる中において、常随給仕の第一は日興上人です。
 正嘉二年に、大聖人が一切経を閲覧されるために駿河岩本(静岡県富士市)の実相寺に入られたときに、日興上人は、大聖人の弟子となられました。以来、常に大聖人の御膝下にあって忠実に信伏随従の範を示されました。
 大聖人は、弘長元(一二六一)年に伊豆、文永八(一二七一)年に佐渡と、二度の配流を受けられましたが、日興上人は大聖人に随従して薪水の労をとり、苦難を共にされました。
 特に、大聖人佐渡御配流の時、他のお弟子方は種々の事情をもって長時の給仕をすることができない中、日興上人のみよく常随給仕されました。このことは、佐渡には日興上人の教化によって帰依した檀越が数多くおり、二十数幅もの日興上人御書写の御本尊が残されていることから明らかです。
 大聖人身延入山後においても、日興上人は有縁の地である甲斐、駿河において大聖人の御指南のまま、広布の陣頭指揮をとられ弘通される一方、身延においては、身に影が添うように大聖人のお側にあって、下種仏法の深義を伝授されました。その師厳道尊の姿が種々の相伝書に拝されます。これは日興上人が微塵も私見をさしはさむことなく、ひたすら大聖人の仏法を身をもって受けられたことによります。
 日興上人の信条、教義のすべては、その師に対する給仕の心、滅私奉公の念が基本となっているのであり、純粋無垢な行学への姿こそ、よく大聖人の仏法の甚深の境地に到達せられ、大聖人を何ら疑うことなく、ただひたすら、信の一字をもって末法の御本仏として拝することができたのです。
 その師に対する日興上人の信仰を証明する事柄として、弟子檀那よりの御供養に対する日興上人の御返事が数十通残されていますが、それらはすべて大聖人の御宝前へお供えされたと書かれており、釈尊に供えたとの文書は一通も見当たりません。これこそ大聖人を末法の御本仏であると拝信された証明です。
 第六十六世日達上人は、『富士日興上人詳伝』の序において、大聖人の御化導を拝する上での大事を次のように御指南されています。
 「二祖日興上人は日蓮大聖人より嫡々の相承を継がれ、大導師として、大聖人の滅後を支指せられたのである。よって日興上人の御教示ならびに御振舞の、そのすべてを通じて、逆に大聖人を拝する時、すなわち、日興上人を通じて、大聖人の御法門を拝す時に、はじめて真実の仏法が理解されるのである」(富士日興上人詳伝一ページ)
 つまり、日興上人の御一生の御振る舞いから、正しい信心の在り方を知ることによって、御本仏日蓮大聖人の御化導を正しく拝することができるということです。
『日興遺誡置文』に、
「一、 富士の立義聊も先師の御御弘通に違せざる事」(御書 一八八四ページ)
と仰せられているように、日興上人が大聖人の仏法を師弟不二の境地に達して寸分も違わず伝持されたからこそ、今日、総本山大石寺に富士の清流が脈々と流れているのです。

日蓮正宗の信仰とは正しい相伝仏法
 大聖人は『四恩抄』に、
「仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」(同 二六八ページ)
と相伝の大切な所以を示されています。また、『一代聖教大意』の中にも、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(同 九二ページ)
 これはまことに重要な意義が存する御文で、師弟相対の相伝によって初めて法華経の真義を知り、伝えることができるという主意が示されているのです。換言すると、もしこの相伝の大事がなければ、仏法は、決して伝持されずに亡失するということですから、決してゆるがせにはできない重大事なのです。日興上人が『遺誡置文』において示された、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事」(同 一八八四ページ)
との一カ条は、日蓮正宗の僧俗が、堅く遵守しなければならない条文です。
 日蓮正宗においては、御書を心肝に染めると同時に、文底の甚深の御法義は、血脈法水承継の御歴代上人より御指南を賜るのです。ここに相伝に基づく日蓮正宗信仰の要諦があると言えるのです。
 故に日興上人は、仏道を行ずる上で師弟相対の信心が大切なことを、『佐渡国法華講衆御返事』に、
「このほうもんは、しでしをたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也」
と仰せられています。
 したがって大聖人御入滅の後は、
「血脈の次第 日蓮日興」(御書 一六七五ページ)
と仰せのように、「本門弘通の大導師」に在す二祖日興上人を師と仰ぐことは当然です。それ以後は、順次、血脈法水を承継遊ばされる御歴代上人を師と仰ぎ、師弟相対の信心をもって本門戒壇の大御本尊を拝するのが、日蓮正宗の信仰なのです。
 第二十六世日寛上人は、『如説修行抄筆記』に、
「師弟相対に約せば、如説とは師説なり(中略)師の所説の如く弟子之を修行す、是れ如説修行なり」(御書文段 五八九ページ)
と仰せられています。大聖人が説かれるままに妙法を行じられた日興上人の御姿が真の如説修行の在り方です。
 日興上人の師弟相対の御振る舞いを拝し、御当代御法主日如上人猊下の御指南通りに身口意の三業をもって、自行化他の行業に邁進することが如説修行であり、師弟相対の信心なのです。私たちは、御法主上人猊下から賜った新たな御命題にお応えするべく、師弟相対の信心に徹してまいりましょう。