令和2年9月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 25

 身延の御生活・蒙古襲来(文永の役)

 前回は、日蓮大聖人が身延入山に至った理由と経緯について学びました。
 今回は、その後の御生活についてさらに詳しく拝すると共に、入山の年に現実のものとなった蒙古襲来を中心に、文永年間末の出来事について学びましょう。

 鎌倉時代の大飢饉

 大聖人御在世当時、天災・人災が絶えることなく起こっていたことにたびたび触れてきましたが、特に大きな飢饉として二つの時期を挙げることができます。
 一つは、寛喜二(一二三〇)年から翌年にかけて発生した「寛喜の飢饉」です。
 この頃は、凶事が起こったことで年号を改める災異改元や、吉事の理由による祥瑞改元が行われていました。
 前年、飢饉を理由とした災異改元により年号が寛喜となりましたが、寛喜二年は追い打ちをかけるように降雪が記録されるほどの冷夏と長雨の年でした。その後、暖冬となったため被害は拡大し、延応元(一二三九)年頃までに国内の三分の一もの人が命を落としたとされ、その規模から、鎌倉時代のみならず日本歴史上最大規模の飢饉とも言われています。
 善日麿としてまだ幼い大聖人も、その惨状を見聞きされ、
「日本第一の智者となし給へ」(御書 四四三n等)
との志を強くする一因となったことでしょう。
 二つ目の大飢饉が、以前「日蓮大聖人の御生涯F」(大日法九九〇号参照)で『立正安国論』御述作の背景として取り上げた当時の天変地夭・飢饉疫癘の一つ、「正嘉の飢饉」です。
 正嘉元(一二五七)年の夏は干ばつとなり、真言僧の加賀法印(定清)が祈雨の修法を行うなどしたものの、長く日照りが続きました。翌正嘉二年も、七月は長雨と低温が続き、さらに八月一日の大風をはじめとする風雨の被害が頻発したことで、冬から翌年にかけて諸国で飢饉が発生しました。
 このとき、京の都でも路上に死者があふれ、食人の噂が広がる有り様でした。弘長元(一二六一)年十月には、餓死や逃亡によって住民不在の村が現われるなど、やはり数年にわたってその影響が尾を引きました。
 十三世紀半ばの日本は、気候が著しく不安定だったと言われています。
 しかし、既に「日蓮大聖人の御生涯G」(大日法九九二号参照)で学んだように、大聖人はこうした災難来由の原因を『立正安国論』にはっきりと示されています。
 すなわち、日本国に邪宗邪義が蔓延る故に善神・聖人が立ち去り、後に悪鬼・魔神が移り来て災いや諸難を起こすという道理(神天上法門)が、経文に照らして明らかなのです。

 山中での御生活

 前回、御書を通して学んだように、大聖人が身延に入山された当時も、慢性的な飢饉が発生していました。
 前出の二度の大飢饉だけではなく、文永九(一二七二)年以降も干ばつによる飢饉が起こり、建治から弘安への改元も、飢饉由来の疫病によるとも言われています。
 大聖人も、建治四(一二七八)年二月の『松野殿御返事』に、
「日本国数年の間、打ち続きけかぢゆきゝて衣食たへ(中略)又去年の春より今年の二月中中旬まで疫病国に充満す」(同一二〇〇n)
と、記されています。
 身延近隣の農民が米一合すら売ってくれないというのも、仕方のない状況だったのです。
 各地の檀越は自らも困窮する中、袈裟・衣・小袖・帷子などの衣服や、食料品として米・麦・粟などの穀類、芋・大根・牛蒡をはじめとする野菜、塩・味噌の調味料類など御供養の品々を、身延の大聖人のもとへお届けしました。
 大聖人は、すべての御供養に対して一つひとつ返事を認められ、御礼を述べられると共に各人に合わせた御指南を与えられています。
 しかし、こうした御供養も、弟子たちを養い分け与えるには十分なものではなく、常に質素極まる生活を送られました。
 総本山第四世日道上人の『御伝土代』に、
「大聖は法光寺禅門、西御門の東郷入道の屋形の跡に坊作って帰依せんとの給う」(歴代法主全書)
と記されています。幕府の要請に従っていれば、執権の館からもほど近い鎌倉の地で、幕府の庇護下で国家安泰を祈る道もありました。
「蘇武が如く雪を食として命を継ぎ、李陵が如く蓑をきて世をすごす。山林に交はって果なき時は空しくして両三日を過ぐ。鹿の皮破れぬれば裸にして三・四月に及べり」(御書 九〇四n)
等の御文を拝するとき、大聖人がいかに御一期を通して万民の妙法信受を願い、権力者を諌め続けたのかを知らなければなりません。
 一方で大聖人は、
「法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ」(同九五七n)
と仰せのように、厳しい山中にありながら、心ゆくまで法華経を読誦し論談するという、修行の日々を過ごされました。
 当初は弟子たちを帰し静かだった庵室も、一人また一人と弟子や参詣者が訪れて大聖人の御法門を聴聞するようになり、いつしか賑やかさを増していったのです。

 文永の役

 身延に入山されて五カ月後の文永十一(一二七四)年十月、ついに大聖人の予言通り、蒙古(元)の大軍が日本に襲来しました。蒙古は、六度の使者を派遣して日本に従属を迫っていましたが、当然、日本はこれに従わず、南宋・高麗との争いに目途がつき、満を持しての日本侵攻でした。
 蒙古軍は、十月五日に対馬、十四日には壱岐へ攻め入り日本軍を斥けました。
『一谷入道女房御書』には、
「対馬の者かためて有りしに宗の総馬尉逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし、女をば或は取り集めて手をとをして船に結ひ付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又是くの如し」(同八三〇n)
と、この時の惨状を記されています。
 その後、十六日から十七日にかけて九州沿岸部を襲撃し勢いに乗った蒙古軍は、同月二十日、博多湾から早良郡百道原(現在の福岡市早良区)に上陸しました。
 赤坂や鳥飼潟で激しい戦闘が繰り広げられ、両軍は多くの損害を出しましたが勝敗は決せず、日没を機に戦闘を中断して双方陣地に戻りました。
 その夜、日本軍が夜襲を行ったとも伝わりますが、翌朝午前六時頃には、蒙古の軍船は既に博多湾から撤退していたといいます。
 撤退の理由を、夜間の暴風により蒙古軍の被害が甚だしかったためと記す書物もありますが、定かではありません。『高麗史』によれば、日本から帰らなかった者が一万三千五百人に上ったと記録され、帰還に一カ月以上を要したことから、帰還途上に沈没した軍船も多かったようです。
 また、むしろ、予想以上に自軍の被害が大きく連合を組んでいた高麗軍の士気も低下していたこと、日本軍と異なり援軍を見込めないなどの理由から、軍議を開いて撤退を決めたとの説が有力です。それに、本格的な冬の訪れの前に退却する予定だったと言われており、軍の出発が三カ月ほど遅れたことで、蒙古の想定にはもともと狂いが生じていたのです。
 蒙古軍撤退直後の太宰府や武士が、闘いによる蒙古軍の撃退を幕府に報告する一方で、蒙古調伏の祈祷を命じられていた真言僧や神官は、自らの祈りによる神威・神風であると幕府に恩賞を要求したことが判っています。
 彼らは、蒙古襲来という事実と、対馬国の守護代をはじめとする武将や勇士、壱岐・対馬の島民など多くの犠牲を払ったことに目を瞑り、流言の流布と『八幡愚童訓』を代表する虚偽の記載に力を注ぐ有り様でした。
 大聖人は翌月の書状に、このような悲劇の原因を、
「自界叛逆の難他方侵逼の難すでにあひ候ひ了んぬ。(中略)当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり。是偏に仏法の邪見なるによる」(同七四七n)
と断言され、速やかに真言宗等の日本国中の謗法を止め、正法に帰依しなければならないと訴えられています。
 さらに十二月十五日、大聖人は弟子檀那一同への御教示として『顕立正意抄』を著されました。
 本抄で大聖人は、「『立正安国論』の意を顕わす」との題号通り、他国侵逼・自界叛逆の二難が符合したにもかかわらず、正法に帰依しない幕府の態度はまさに天魔に魅入られた姿であると嘆かれています。さらに、日本国中が謗法の心を改めなければ、近い将来に万民が無間地獄に堕ちることは疑いなく、それは大聖人の弟子であっても例外ではないと、厳しく誡められています。
 次回は、「建治年間の門下の動静と、大聖人の御教示」について触れていきます。