令和2年8月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 24

身延入山

 前回学んだように、日蓮大聖人の三度にわたる国主諫暁も幕府の用いるところとはなりませんでした。そのため大聖人は、
「三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれいなり」(御書一〇三〇n)
と、古の賢人の例にならい、鎌倉を去り身延に隠棲される決意を固められたのです。

隠栖の理由

 大聖人は、
「旁存ずる旨ありLに依りて、当国当山に入りて」(同一五〇一n)
と仰せのように、いくつかの理由によって隠栖の決意を固められたことが拝察されます。
 その理由として、第一には、四恩を報じ民衆を救済するために行った、三度にもわたる国主諫暁が幕府に用いられなかったため、今はこれまで、とされたからです。

 第二には、法華経を身読されたことで悟られた法義等を後世に残すためには、閑静な地において法義書等の著述に当たることが最適であると考えられたからです。
 第三には、万代に亘る広宣流布の基礎を作るためには、人材の育成が必要不可欠であることから、弟子たちを教育する環境が必要であったからです。
 第四には、『観心本尊抄』等に示された御内証の法体、すなわち、本門戒壇の大御本尊を建立し、三大秘法(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)の確立を図ることでした。
 以上の理由の中でも、第三の人材の育成と第四の法体の確立は、特に力を注ぐ必要があったものと拝されます。

隠栖の地

 次に、隠栖の地を身延に選ばれた理由は、当時の弟子たちの弘教地には、相模・武蔵・安房・下総・伊豆・駿河・甲斐などがありましたが、甲斐以外の地は、幕府要人の領地や他宗派の勢力地であったため、いずれも隠栖の地としては適していませんでした。
 それに対して甲斐国は、日興上人が弘教の基盤とされており、特に身延は、日興上人が直接教化した波木井実長が地頭を務めていることから、日興上人の勧めもあり、まずは身延に赴くことにされたのです。
 さらに身延の地は、後に戒壇を建立すべき最勝の地である富士山にも近く、また政治の中心地である鎌倉からも程よい距離にあることから、幕府の動静を知る上でも適しており、また、山深い場所である故に、隠栖するには最適の地であったと拝されます。

身延入山

 文永十一(一二七四)年五月十二日、大聖人は、鎌倉の大勢の人々との別れを惜しみつつ、日興上人らの弟子たちを連れて身延に向かわれ出発されました。
 当時の鎌倉から身延までの道程は、
 「十二日さかわ、十三日たけのした、十四日くるまがへし、十五日をゝみや、十六日なんぶ、十七日このところ」(同 七三〇n)
と仰せのように、鎌倉を出発された十二日に酒匂(神奈川県小田原市)、十三日には竹之下(静岡県駿東郡)、十四日には車返し(静岡県沼津市)、十五日には大宮(静岡県富士宮市)、十六日には南部(山梨県南巨摩郡)と、各所で一泊ずつされて、十七日にようやく身延の波木井実長の館に到着されました。
 しかし、身延での御生活は、
「けかぢ申すばかりなし。米一合もうらず。がししぬべし。此の御房たちもみなかへして但一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ」(同)
と仰せのように、折からの飢饉によって農民は一合の米さえも売ってくれません。そのため、弟子たちを養うこともままならないため、弟子のほとんどを帰されたとの記述からも、いかにたいへんであったかを知ることができます。
 この身延入山に当たって、後世他門の日蓮宗では、身延を特別視する身延中心説などを主張していますが、
「いまださだまらずといえども、たいしはこの山中心中に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ」(同)
と仰せのように、大聖人の御心には、あくまでも隠栖するための場所として身延を選ばれたに過ぎないことが拝されるのです。

『法華取要抄』

 身延に入山されてから間もない五月二十四日、大聖人は『法華取要抄』を御述作され、下総の強信徒である富木常忍に与えられました。
 本抄は、初めて三大秘法の名目が示され、法華経の要中の要である三大秘法の南無妙法蓮華経が、末法に弘まるべき法体であることを説かれた重要な御書であり、その内容は、大きく三段に分けられます。
 第一段では、釈尊が説かれた一代聖教ついての勝劣・浅深を示され、諸宗の僧侶が自分勝手に自らの信じる経典が優れているという主張を、釈尊自らの言葉(経文)によって破折して、法華経こそが勝れていることを明らかにされます。
 第二段では、釈尊が法華経を説いた目的について、
「(迹門を逆次に読む時は)鮮滅後の衆生を以て本と為す。在世の衆生は傍なり。滅後を以て之を論ずれば正法一千年・像法一千年は傍なり。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり」(同 七三四n)
と仰せのように、法華経は在世の衆生の得脱のためであると同時に末法のために説かれ、さらには大聖人のために説かれたことを明かされています。
 第三段では、末法流布の大法としての本門の三大秘法の意義・内容が示されます。
 すなわち、
「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(同 七三六n)
と、法華経の中でも広略を捨てて、肝要である文底下種の南無妙法蓮華経をもって末法流布の大法と定められます。その大法とは、
「問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰わく、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(同)
と仰せのように、在世・正像二千年に末だ弘められることのなかった三大秘法であることを明かされます。
 そして最後に、妙法流布の先相として、正嘉年中の大地震や文永の大彗星、それ以後、様々な天変地夭が起こったことを示された後、
「かくの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か」(同 七三八n)
と仰せのように、国土の混乱の後、上行菩薩らの聖人(日蓮大聖人)が末法に出現され、三大秘法を建立し、この大法が全世界に広宣流布することを御教示されています。

庵室の造営

 身延に入山され、波木井実長の館にて御過ごしであった大聖人に対して、実長は立派な堂宇の建立寄進を申し出ました。しかし、大聖人はこれを止められ、自ら質素な庵室を造営されて御住まいになられました。
 この庵室は、
「この山のなかに、きをうちきりて、かりそめにあじちをつくりて候」(同一一八九n)
と仰せのように、仮初めの庵室であることから、数年も経たずに痛みが目立ちはじめ、弟子たちが修復を試みるも、満足な修復には至らないほどの極めて質素な庵室でありました。
 しかし、この庵室において、約八年間にわたる身延での御生活が始まることとなったのです。