令和2年7月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 23

第三の国諌

 文永十一(一二七四)年三月二十六日、日蓮大聖人は佐渡に配流されてより、二年半ぶりに鎌倉に戻ってこられました。御年五十三歳の時です。
 竜口法難以来、大聖人が佐渡に配流された以降も大聖人の弟子檀那への、幕府や念仏者等からの弾圧は筆舌に尽くし難いものがありました。所領の没収や御内追放などの迫害や、放火犯の汚名を着せるなど卑劣を極め、多くの弟子檀那は退転していきました。
 その中にあっても大聖人の御手紙を頼りに退転することなく、強盛な信心を貫いた少数の弟子檀那は、このたびの大聖人の御帰還に当たり、再び大聖人のもとで信心できる喜びと安心感で包まれていました。より一層の正法への確信となり、折伏の機運が高まっていきました。
 一方、かねてより他国侵逼難を予言されていた大聖人は、迫り来る日本国の大難を憂い、一国の救済のために身命を捨てて、再び国主諫暁されることを固く決意していました。
 間もなくして鎌倉幕府より出頭の命令が到来し、四月八日、大聖人は、幕府の館において、平左衛門尉頼綱をはじめとする幕府の要人と対面されました。
 この時の様子を『種々御振舞御書』に、
「四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さきにはにるべくもなく威儀を和らげてたゞしくする云云」(御書一〇六七n)
とあるように、竜口法難の時には居丈高だった平左衛門尉が、前回とは打って変わり態度を和らげて礼儀正しく大聖人を迎えたのです。そして平左衛門尉は、爾前経での成仏の有無について質問し、その他同席した要人たちは、それぞれ、念仏・真言・禅等の信仰について、質問してきました。大聖人は、それぞれの質問について、一つひとつ経文を引いて丁寧に答えられ、法華経以外の爾前の諸経では成仏はできないことを説かれました。
 さらに大聖人は、
「念仏は無間地獄へ堕ちる業であり、禅宗は天魔の仕業であることは疑いない。殊に真言宗が弘まることが、この国の大なる災難を引き起こす原因であるから、蒙古国を降伏させる祈祷を真言師に申しつけてはならない。もし真言僧たちに祈祷を申しつけられるならば、ますます早急にこの国が亡びるであろう(趣意)」(同 八六七n)
と強く述べられました。
 そこで平左衛門尉は、幕府の最も関心事である蒙古襲来の時期を質問したのです。
 これに対し、大聖人は、
「四月の八日、平左衛門尉に見参してやうやうの事申したりし中に、今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ」(同一〇三〇n)
と仰せられ、はっきりと「今年は一定なり」と今年中に蒙古の襲来があることを断言されました。そして「日蓮以外に日本国を救済できる者はいない。真言僧たちに祈祷を申しつけられるならば必ず日本は敗れ、誰一人として助かるものはいないであろう。真にこの国を助け自らも助からんと思うならば、直ちに邪宗の僧侶の首を切って謗法の根を断ち、正法に帰伏しなければならない」との旨を厳しく仰せられました。
 これが、「三度の高名」のうちの第三番目に当たります。

「三度の高名」

 「三度の高名」とは、『撰時抄』に、
「余に三度のかうみゃうあり」(同 八六七n)
と御示しになられた、大聖人が為政者に対して行った三度にわたる国主諌暁をいいます。
 一度目は、文応元(一二六〇)年七月十六日、『立正安国論』をもって、幕府の最高実力者である前執権・北条時頼(最明寺入道)を諫暁したことです。
 この時、最明寺入道に対して、「禅・念仏等の邪宗への帰依が三災七難の原因であり、これらの邪宗を急いで対治しなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難は免れない」と警告されました。
 二度目は、文永八(一二七一)年九月十二日、大聖人を捕らえにきた平左衛門尉に対する諫暁です。この時、大聖人は平左衛門尉に向かって、
「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり」(同)
と喝破され、今に自界叛逆として一家の同士討ちが始まり、他国侵逼難といって、この国々の人々が他国から攻められ、殺戮されるのみならず、多くは生け捕りにされること。そして、邪宗の寺院を焼き払い、邪僧らの首を切って、日本国の謗法の根を断たなければ、日本国は亡びるであろうと厳しく諌められました。
 三度目は、先に述べた文永十一(一二七四)年四月八日、再び平左衛門尉に対して行われた国諫です。
『高橋入道殿御返事』に、
「此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんかためにのぼりて候ひき」(同 八八九n)
と仰せのように、御本仏としての大慈大悲による一切衆生救済のため、また日本国を助けるために、佐渡御配流から戻られた後、再び平左衛門尉をはじめとする幕府の要人たちに諫暁なされたものでした。
 しかし、この三度目の国諫も用いられることはありませんでした。

幕府の懐柔

 幕府は、今年中に蒙古が来襲してくることを予言された大聖人の言葉のみ恐れて、土地や堂舎を寄進することを条件に、他宗の僧と同じく国家の安泰を祈祷して欲しいと願ってきました。
 大聖人は、
「世間法とは、国王大臣より所領をたまはり官位をたまふ共、夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云ふなり」(同一八四七n)
との御精神から、幕府の要請を一蹴されました。
 このことは、大聖人が、世間的な名声や権力による庇護を望まれていたのではなく、ただ人々の不幸の原因である邪教を対治し、正法をもって平和な国土の建設を願われていたからに他なりません。

真言亡国の相

 また当時、折からの干ばつによって井戸は涸れ、作物も全く実らず、人々は塗炭の苦しみに喘いでいました。そこで幕府は、大聖人の再三にわたる諌言を無視し、阿弥陀堂の別当・加賀法印に祈雨を命じました。四月十日より真言の修法が行われると、翌日の十一日には雨が静かに降ってきたのです。このため執権の時宗は多大な恩賞を加賀法印に贈り、鎌倉中の上下万人も感嘆し、真言祈祷の誤りを説く大聖人を嘲笑しました。
 大聖人は、
「しばしまて(中略)子細ぞあらんずらん」(同一〇六八n)
と仰せられると、翌日の十二日には雨も止み、突如大風が吹き荒れ、鎌倉の大小の舎宅・堂塔・古木・御所等が損傷し、人々も牛馬も多く吹き殺される事態になりました。こうして真言の祈りは正しいものでないことが現証として露顕したのです。
 また大聖人は『八幡宮造営事』に、
「其の故は去ぬる文永十一年四月十二日に、大風ふきて其の年他国よりおそひ来たるべき前相なり。風は是天地の使ひなり。まつり事あらければ風あらしと申すは是なり」(同一五五七n)
と、この悪風は政治の乱れを象徴するものであり、また蒙古襲来の前兆であると仰せられています。
 こうして第三の国諌の時に仰せられた、
「大蒙古を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべし(中略)天の御気色いかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき」(同 八六七n)
との大聖人の予言は的中したのです。この年、文永十一年十月、蒙古の大軍は、壱岐、対馬に攻め入り、ありとあらゆる暴虐を尽くし、さらにその大軍は北九州の沿岸へと押し寄せ他国侵逼難が現実のものとなりました。
 いわゆる「文永の役」という未曽有の大事件が起きたのです。
次回は、身延入山について学んでいきましょう。