令和2年6月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 22

佐渡赦免

佐渡の日々


塚原問答抄や二月騒動の予言的中により、少しずつ日蓮大聖人に心を寄せる人たちが増えてきていました。
 食料はもとより、紙も乏しい生活であることには変わりありませんでしたが、御本仏の御立場から種々の教義書を執筆され、帰伏した最蓮房らと法門を語り合い、四条金吾、日妙聖人らの遥々の訪問を受けるなど、充実した日々を過ごされていたのです。
 竜口法難後、鎌倉に残した弟子檀那は日朗らが土龍に入れられるなど強い迫害を受けていましたが、これもまた二月騒動の勃発にり釈放されました。
 弟子の中には、自界叛逆難の的中をもって大聖人の赦免を訴える者がいましたが、それを聞き及んだ大聖人は、そのような赦免運動を厳しく制止されます。これは、幕府要人がその盲目を開いて大聖人に帰伏するのが筋目であり、大聖人が赦免を幕府に願い出る必要などないためと拝されます。
 一方で、塚原問答で破れた念仏宗徒らは、大聖人を亡き者にしようと謀議を巡らして、佐渡守護であった北条宣時に訴えかけていました。

虚御教書と法華身読

 念仏宗徒らは次のように訴えました。
「日蓮房が佐渡にいたならば、念仏の寺塔はなくなり、念仏僧もいなくなってしまい、佐渡の念仏宗は滅亡してしまうだろう。日蓮房は阿弥陀仏を火にくべたり川に流しているばかりか、夜も昼も山に登って日月に向かって幕府を呪詛しており、その声が佐渡一国に響きわたるほどである(趣意)」(御書一〇六六n)
 北条宣時は、まだ何の役職もない時分に、北条時頼(最明寺入導)と普段着で親しく酒を酌み交わしていたような人物でした。そのため大聖人に対しては、その時頼のことを「地獄に堕ちた」と言っている人物と聞いており、悪感情を招いていたと考えられます。こうした念仏宗徒らの訴えを受け入れ、かつ、上に報告するまでもないと勝手に、執権の意を受けているかのような命令書を作り上げ、大聖人の一門を迫害しようとしたのです。
『法華行者値難事』によれば、その書状は次のようなものでした。
「佐渡国の流人の僧日蓮、弟子等を引率し、悪行を巧むの由其の聞こえ有り。所行の企て甚だ以て奇怪なり。今より以後、彼の僧に相随はんの輩に於ては炳誡を加へしむべし。猶以て違犯せしめば、交名を注進せらるべきの由候所なり。仍って執達件の如し。
 文永十年十二月七日
沙門観 恵上る
 依智六郎左衛門尉殿等」
(同 七二〇n)
 このような偽の御教書は三度も出されましたが、その背後には佐渡の念仏宗徒らだけではなく極楽寺良観の策謀もあったのです。
 これを御覧になった大聖人は、法華経等を引かれ、釈尊の在世と正像二千年の間には釈尊と天台と伝教という三人の法華経の行者がいらしたこと、そして末法の法華経の行者に襲いかかる難は、釈尊が受けられた難をも超過すると示された上で、
「当に知るべし、三人に日蓮を入れて四人と為す。法華経の行者末法に有るか。喜ばしいかな、況滅度後の記文に当たれり」(同)
と、御自身こそ末法の法華経の行者であると仰せになっています。
 さらに追伸には、今こそ天台・伝教が説き弘められなかった三大秘法、本門の本尊と四菩薩、戒壇と題目の五字を建立し弘めるべき時であることを御教示になり、日蓮の弟子檀那たる者は深くこのことを知って、互いに読み聞かせて団結し、けっして退転することがないようにと御注意されています。

迫る国難と不祥の瑞相

 さて『観心本尊抄』御著述よりも前、文永九(一二七二)年十月二十四日の夜、大聖人は蒙古と幕府との戦乱の御夢想を御覧になり、刻一刻と蒙古襲来の時が近づいていることを御感じになっていました。
 事実、蒙古は文永八年に国号を元と改め、文永九年五月には高麗の使いが元の牒状を携えて日本を訪れ、また翌文永十年三月には元の使い趙良弼が太宰府へ来たものの、京に入ることができずに帰国していくなど、次第に世情は緊迫の色を強めていたのでした。
 同時に様々な不祥の瑞相が起きています。文永十年七月には佐渡に石灰虫(一説にはイナゴ)と呼ばれる害虫が発生して稲を害し、文永十一年正月二十三日には佐渡の西方で太陽が二つ、三つと並ぶのが観測され、二月五日には東方に二つの明星が並んで出現するのが見られました。
 大聖人はこれらの瑞相について、最勝王経や金光明経・仁王経等の経文を引き「第一の大悪難なり」と喝破されました。蒙古襲来が切迫してきていることを感じられていたのです。

頭の白い烏の飛来

 さて『光日房御書』によれば、佐渡御配流の当初、故郷である安房への望郷の念を懐かれていたことが窺えます。しかし念仏・禅・律・真言の各宗が厚く信仰されている日本国で、御自身は法華経を経文に説かれる通りに弘めたために佐渡へ流されたのであり、鎌倉へ帰ることは難しいと考えられました。
 その一方で、法華経が真実であり、日月両天子や諸天善神が法華経の行者である御自身を捨てていなければ、きっと鎌倉に帰り、ご両親の墓参も叶うであろうとお考えになり、心強く思われていました。
 そして、高い山に登っては次のように諸天を諫暁ざれたのです。
「梵天・帝釈・日月・四天はどうしたのであろうか。天照大神・八幡大菩薩はこの国にはいらっしゃらないのか。仏前で法華経の行者を守護すると誓った言葉はむなしくなりはて、法華経の行者を捨てたもうか。(中略)この罪を恐ろしく思うのであれば、急ぎ国に徴を現わし、本国へ帰したまえ(趣意)」(同 九五九n)
 その結果、二月騒動が起きて状況は変わりましたが、未だに配流が解かれることはなく、大聖人はさらに諸天を諫暁されました。
 ある日のことでした。大聖人のもとへ一羽の頭の白い烏が飛んできて、それを御覧になった大聖人は、燕の丹太子の故事を思い出されました。
 秦国の人質となっていた燕の太子・丹は、帰国を願い出たところ、秦王政から「烏の頭が白く、馬に角が生えたら許そう」と、あろうはずがない条件を言われて許されませんでした。あまりの言葉に天を仰ぎ見て嘆いたところ、不思議なことに烏の頭が白くなり、馬からは角が生え、丹は帰国することができたと言われています。
 大聖人は、この故事を御自身に引き当てられて、赦免の近いことを悟られたのです。なおこの時に飛来した烏は、日天子の使いと伝えられています。

赦 免

 幕府内では、相模守(執権・北条時宗)が、大聖人の予言が的中したこと、また子細に考えてみればさしたる科もないことから、周囲の反対を押さえて赦免する決意をしていました。そして文永十一年二月十四日に赦免状を発し、三月八日に大聖人のもとにその赦免状が届けられのです。
 佐渡の念仏者たちは、阿弥陀仏の怨敵を生きては帰すまじと策謀を巡らしていましたが、大聖人は無事に三月十三日には佐渡真浦の津に着き、十四日も同地に留まった後に出航しました。
 本来は越後の寺泊に到着すべきところを、大風の影響で柏崎に着岸し、その翌日には国府に到着されました。予定では寺泊から陸路で柏崎を経由するはずが、かえって日程を短縮できたのです。
 この時、既に大聖人赦免を聞き及んでいた越後や信濃の念仏者たちが善光寺に集結し、大聖人に危害を加えようと待ち構えていました。
 しかし大聖人一行は、国府から多くの武士の警固を受けて、念仏者らの集結した善光寺を無事に通り抜け、三月二十六日に鎌倉へと到着されたのです。
 慣れ親しんだ佐渡の人々を思うとき、「そりたるかみをうレろへひかれ」(御書七四〇n)るように離れ難いものでありましたが、蒙古襲来を眼前にして再び国諫をなすべき身となり、平左衛門尉頼綱と対面することになったのでした。