令和2年5月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 21

一谷での御生活

前回学んだ『開目抄』と共に、日蓮大聖人の御一代を代表する重要書とされるのが『観心本尊抄』です。今回は『観心本尊抄』の御述作を中心に、一谷に移居されてからの御振る舞いを学びましょう。

一谷への移居

 文永九(一二七二)年二月の『開目抄』御述作からふた月ほどが経過した初夏の頃、大聖人は塚原から一谷の地に移られました。当時の法度(法律)に基づく制度上の理由からか、あるいは大聖人を憎む者たちから守るための移居であったのか、定かではありません。
 三昧堂より住環境が改善されたとはいえ、新たに監視役となった名主は念仏の強信者であり、父母の敵や前世からの仇敵に会ったような、憎々しげな対応を取り続けました。渡される食料もわずかばかりで、付き従う弟子たちと二口、三口と分け合う有り様でした。
 その様子や大聖人の御振る舞いを間近で見ていた配所の家主、一谷入道と、その妻や使用人たちは、「宿の入道といゐ、めといゐ、つかうものと云ひ、始めはおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内々不便と思ふ心付きぬ。(中略)宅主内々心あて、外にはをそるゝ様なれども内には不便げにありし事何の世にかわすれん」(御書 八二九n)
と御示しのように、念仏者ではありましたが次第に心を寄せ、陰で手助けをするようになっていったのです。

乙御前母子の来島

 この頃から門下の中に、佐渡の大聖人のもとへ詣でようという動きが出始めました。
 しかし『日妙聖人御書』に、
「相州鎌倉より北国佐渡国、其の中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨々海は涛々、風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。(中略)其の上当世の乱世、去年より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ、いまだ世間安穏ならず」(同 六〇七n)
とあるように、多くの弟子・檀越が在住する鎌倉から佐渡への道程はただでさえ危険が多く、さらに自界叛逆難の様相を呈する前年からの世の乱れも、治まる気配がありませんでした。
 そのような状況にあって鎌倉から大聖人を訪ねてきたのが、乙御前母子だったのです(娘の乙御前は渡島せず、母一人であったとする説もあります)。
 後年、大聖人はこの時のことを『乙御前御消息』に、
「御勘気をかほりて佐渡の島まで流されしかば、問ひ訪ふ人もなかりしに、女人の御身としてかたがた御志ありし上、我と来たり給ひし事うつゝならざる不思議なり」(同 八九六n)
と、現実のこととは思えないほど不思議で尊いことであったと述懐されています。
 この渡島の際の乙御前母子の道中の苦労について、大聖人は、
「道中、宿泊した先々の人の心は、虎や犬のように荒んで恐ろしく、乙御前母子はその身に三悪道を経験したかのように苦しんだことであろう(趣意)」(同 六〇七n)
と思いやられています。
 さらに大聖人は、危険を顧みず佐渡を訪れた乙御前の母の信心を賞賛されて、
「日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云云」(同)
と、檀越として初めて「日妙聖人」と聖人号を授けられたのです。
 こうして無事、大聖人にお目にかかることができた日妙聖人でしたが、女性だけでの旅は、やはり過酷で日数を要したのでしょう、鎌倉へ帰る費用が欠乏してしまいました。
 大聖人が一谷入道に話をしたところ、旅費を立て替えてくれることになり、その代わり大聖人が赦免となった暁には、入道に法華経一部を渡すことを約束されました。
 しかし入道は、阿弥陀堂を建立し自らの田畑を寄進するほどの念仏者で、地頭からの仕打ちを恐れたこともあり、ついに念仏を捨て切ることができませんでした。
 赦免の後、入道に法華経を渡したのでは謗法になり、渡さなければ約束を違えることになってしまう、と思惟された大聖人は、法華経の信仰者となっていた入道の母へ法華経と開結二経を送られ、弟子の学乗房に読み聞かせてもらうよう伝えられています。

『観心本尊抄』御述作

 翌文永十年四月二十五日、大聖人は、自ら、
「日蓮当身の大事」(同 六六二n)
と称される御書を認められ、下総国中山(現在の千葉県市川市)の富木常忍に送られました。この書が『観心本尊抄』で、大聖人が題された正式な名称は、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄(如来の滅後五五百歳に始む観心の本尊抄)』と言います。
 大聖人は本抄に副えられた書状において、仏滅後二千二百二十余年にして、国難を顧みず説き出す前代未聞の法門であるため、信心強盛の者にのみ披見を許すよう念を押されています。
 本抄では、まず凡夫の一念心に三千の諸法が具足するという「一念三千」の出処として、天台大師の『摩詞止観』の文を示されます。天台大師の示す観心修行とは、我が己心を観察し、そこに十法界のすべて、特に仏界が実際に具わっていることを体得すること、とします。
 しかし大聖人は、末法の一切衆生が修すべき観心修行とは、妙法受持の一行にあるとの「受持即観心」の義を明かされます。それは妙法蓮華経こそが一念三千の当体だからです。
 さらに、衆生の尊崇すべき妙法の本尊を示すに当たって、釈尊一代五十年の教法を五重に括り、それぞれを序分、正宗分、流通分の三段に分ける教判を立てられました。これを「五重三段」といいます。
 序分とは、正意とする教法を説くための準備段階、正宗分とは、中心・中核をなす教法が説かれる本論の部分、流通分とは、衆生を利益するために教法を広く流布する方法等が説示された部分です。
 本抄に示される五重三段は、大聖人独自の御法門であり、その名目を挙げれば、@一代一経三段、A法華経一経三段、B迹門熟益三段、C本門脱益三段、D文底下種三段の五つです。中でも、第五番目の文底下種三段で明かされる法体こそ、末法における一切衆生のための下種の妙法本尊となります。
 すなわち、本尊の正体とは、如来寿量品の文底に秘し沈められた大法、久遠元初本因名字の妙法蓮華経に他なりません。
 本抄は、大聖人御自身が『開目抄』に示された主師親三徳兼備の御境界をもって、久遠元初の御本仏出現と、付嘱の大法としての即身成仏の一念三千、妙法大漫荼羅本尊の建立を開顕された御書なのです。よって『開目抄』の「人本尊」に対して、「法本尊開顕の書」と称されています。

佐前佐後

 佐渡配流中、大聖人が著された御書は『諸法実相抄』等五十篇を超えています。内容も『開目抄』や『観心本尊抄』のような重要法義から、真言宗をはじめとする諸宗の破折、妙法の功徳と諸天の加護を説く弟子檀越への激励の書状など多岐にわたっています。これらは紙を手に入れることも難しい中で著されたもので、一枚の書状の行間や上下の余白にまで認められた御書もあり、当時の御化導の様子を拝することができます。
 大聖人が『三沢抄』に、
 「法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(同一二〇四n)
と仰せのように、御一期が常に「法華経の行者」としての御振る舞いであると言っても、佐渡以前と以後、すなわち竜口で発迹顕本される前と後では、その法門と御化導に大きな違いがあるのです。
 発迹顕本以前は、上行所伝の題目弘通を中心とした御振る舞いでしたが、発迹顕本以後は、外用は上行菩薩として、しかし、内証は末法の御本仏としての御境界の上から、御本尊を顕わされ、三大秘法整足のための御化導を示されます。
 だからこそ、出世の本懐を顕わされる時期に向けて、不便の多い佐渡在島中にもかかわらず大事の御法門を書き顕わされ、最蓮房、四条金吾、富木常忍等の門下に託されたのです。
 なお、他門である日蓮宗には、先に引いた『三沢抄』の御文をもって、佐渡期の御化導が本門・正宗分だと主張する者たちがいます。これは、大聖人の御化導が本門戒壇の大御本尊に極まることを理解できない、仏法の筋目に迷う姿と言えます。