令和2年3月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 19

塚原問答

塚原配所の生活


文永八(一二七一)年十一月一日、現在の暦で換算すると、十二月四日の厳冬に、日蓮大聖人は塚原の配所に入られました。
『富木入道殿御返事』には、
「北国佐渡国に下著候ひて後、二月は寒風頻りに吹いて、霜雪更に降らざる時はあれども、日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず」(御書 四八七n)
と記されているように、佐渡に到着された時期はまさに膚を裂くような酷寒であったことが想像されます。
 また、寒さを防ぐための肝心の建物も天井の板間が合わず、四壁は荒れ果て崩れており、その隙間からひっきりなしに雪交じりの寒風が吹き込んでくるという粗末なものでした。
 そのような室内に敷皮を敷き、四六時中蓑を着て寒さに酔え忍ばれておられました。
 大聖人はこのような苛酷な状況下にあっても、
「眼には止観・法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向かひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ」(同一〇六三n)
と、昼夜を分かたず読経と唱題、法華講談の日々を過ごされ、文永九年の年が明けました。

塚原問答

 一方では、大聖人の佐渡流罪を耳にした念仏者や律宗の僧侶たちが多数寄り合い、大聖人を亡き者にしようと謀議していました。
その話し合いの結果、
「六郎左衛門尉殿に申して、きらずんばはからうべし」(同一〇六四n)
として、地頭・本間重連のいる守護所へ大挙して押しかけ、大聖人殺害を迫りました。
 これに対して、本間重連は、
「上より殺しまうすまじき副状下りて、あなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかし」(同)
と述べて、法門をもって決着するように促しました。
 これによって、文永九年正月十六日、諸宗の僧らが続々と大聖人がいる塚原の三昧堂に集まり、「塚原問答」が始まります。
 この法論には、佐渡の国の僧だけではなく越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々から諸宗の僧侶たちや、百姓の入道たちも加わり、塚原の三昧堂の大庭から山野へかけて数百人規模の群衆となりました。そして地頭の本間重連一統が見守る中で、法論が開始されました。集まった諸宗の僧侶たちは口々に大聖人を罵り、騒ぎ、その音声はまるで地震か雷鳴のようでした。
 大聖人はしばらく騒がせておいてから、「各々方静まりなさい。法論のためにこそおいでになったのではないか。悪口等は無益である」と声高に仰せられました。
 その場にいた重連をはじめ多くの人々が「まことにその通りである」と言って、座を鎮め、しつこく悪口を言っていた念仏者たちの首根を捕まえて遠くへと追いやりました。
 問答の内容について、『種々御振舞御書』には、次のように記さ
れています。
「さて止観・真言・念仏の法門一々にかれが申す様をでっしあげて、承伏せさせては、ちゃうとはつめつめ、一言二言にはすぎず。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ。利剣をもてうりをきり、大風の草をなびかすが如し」(同)
問答の様子は右のように、鎌倉の諸大寺の学匠でさえ全く相手にならないのに、佐渡や奥州の田舎僧侶が大聖人に対して太刀打ちできるはずがありません。大聖人の詰問に答えることができず、一言二言で論断されてしまうほどの、無能な僧たちだったのです。
 彼らは、
「仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ。(中略)或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが事なりけりと云ふものもあり。或は当座に袈裟・平念珠すてゝ念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり」(同一〇六五n)
とあるように、大聖人の正義を前に無知蒙昧な醜態をさらけ出したのです。大聖人は、敵意と憎悪に満ちた数百人を相手にして法論し、これを見事に圧倒なさったのです。

自界叛逆難の予言

 問答が終わり、法論に離れた僧侶たちは最初の威勢も虚しく意気消沈して立ち去っていきました。
 そして見物の人たちもそれぞれ思い思いにその場を離れ、本間一族も立ち去ろうとした時に、大聖人は本間重連を呼び止められ、「いつ鎌倉へ上られるのか」
とお尋ねになられました。
 そしてこれに対して重連が、
「下人どもに農事をさせてからで、七月頃になりましょう」
と答えたところ、大聖人は、
「ただ今戦が起ころうとしているのに、急いで鎌倉へ駆け上り手柄を立てて領地を賜らないのか。何といってもあなた方は相模の国では名の知れた武士である。それが田舎で田を作っていて戦の陣列に加わらなかったならば、恥となるであろう」
と、鎌倉において合戦が起こる旨の予言をされました。
 本間重連をはじめとする一門の者や、さらにその場に居合わせた念仏者や見学の者たちは、この大聖人の予言に対して、ただただ訝しく思うだけでした。

再度の問答

 明くる十七日、前日の塚原における問答で惨敗した念仏者たちは、性懲りもなく彼らの首領であった印性房弁成を立てて、塚原の三昧堂に再び訪れました。
 そして弁成が質問しました。
「法然上人は法華経を抛てよと書かれたのではない、一切衆生に念仏を唱えさせ、この功徳によって往生疑いなしと書き付けられたのである。これについては、比叡山や園城寺の僧で、今、佐渡に流されている人も『よい教えである』と褒めている。それなのに、あなただけは、どうして法然上人の義を破するのか」
 こうした取るに足らない質問に対し、大聖人は、
「鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ。無慚とも申す計りなし」(御書 五八一n)
と、愚かな弁成を一々に論破され、その時の記録を『法華浄土問答抄』として遺されました。そこには大聖人の花押と並べて印性房も花押を認め、念仏が邪義なることを弁成自ら認めたのです。
 このように佐渡における念仏僧の代表格である印性房弁成を完膚なきまで屈服させ、塚原における問答の一切がここに終結しました。

本間重連への予言的中

 一月十六日の塚原問答の後、大聖人は立ち去る本間重連を呼び止め、自界叛逆の難が起きることを予言されましたが、これが現実のものとなったのです。それは北条家一門による内紛で、いわゆる「二月騒動」といい、別名「北条時輔の乱」です。
 この「二月騒動」とは、北条時頼の庶子・時輔が、異母弟の時宗が得宗・執権となって幕府の権力の座についたことに不満を持ち、謀反を企てたものです。これを事前に察知した時宗は、時輔の与党と見られた名越時章・教時兄弟を鎌倉で討ち、さらに六波羅探題北方の北条義宗に命じて時輔を討たせたのでした。
 この事件の報せは、ちょうど塚原問答での予言から一カ月後の、二月十八日に佐渡へ着いた早船によってもたらされました。
「二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのやう申す計りなし。六郎左衛門尉其の夜にはやふねをもて、一門相具してわたる。日蓮にたな心を合はせて、たすけさせ給へ」(同一〇六五n)
とあるように、塚原問答の時には、大聖人の予言を不審がっていた本間重連をはじめ一門の者たちも、この報せを聞いてたいへん驚き、大聖人のもとへ馳せ参じ、今までの信仰を悔い改め「永く念仏申し候まじ」と誓いました。そしてその夜、本間重連は急遽、早船をもって一門を率いて、鎌倉へと渡っていきました。
 佐渡の島民の中にも、大聖人の予言が的中したことにより、 此の御房は神通の人にてましますか、あらおそろしおそろし。
今は念仏者をもやしなひ、持斎をも供養すまじ」(同一〇六六n)
と畏敬の念を懐いて、念仏の信仰をやめると誓う者も現われました。
 今回は、塚原問答並びに自界叛逆難の予言的中を中心に日蓮大聖人の御化導を拝しました。こうした史実を学んだ私たちは、目睫に迫った大聖人御聖誕八百年の佳節に向かって、今こそ日蓮が弟子檀那として、大聖人の驥尾に附して二陣三陣と続いて勇猛果敢に折伏弘教に邁進してまいりましょう。
 次回は、『開目抄』の御述作について拝していきます。