令和2年2月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 18

佐渡での生活

北海を越えて


 文永八(一二七一)年十月二十一日、日蓮大聖人は配流地である佐渡に向かうため、越後国寺泊(新潟県長岡市)へと到着されました。現在の麿では十二月一日に当たり、立冬から大雪になる頃です。
 江戸時代の松尾芭蕉の『おくのはそ道』に、
「荒海や佐渡によこたふ天河」(日本古典文学大系四十六『芭蕉文集』九一n)
という一句がありますが、北海の孤島である佐渡島へ渡るためには、風と海の状態をよく見て船を出さねばなりません。大聖人を連れた一行も、『寺泊御書』に、
「順風定まらず、其の期を知らず」(御書 四八四n)
とあるように、しばらく寺泊に滞在することとなったのです。
 渡航の機会を待つことおよそ一週間。大聖人を乗せた船は無事に佐渡島の松ヶ崎に到着しました。
 松ケ崎は越後から海を渡ってきた船の船着き場です。今もなおこの海岸は、大きな船が着岸できるように角の取れた丸い石がたくさん積み重なっていて、波打ち際に立つと、繰り返す波によってカタカタカタと石が音を立てるのを聞くことができます。
 その松ケ崎から、雪の積もる小佐渡山脈峠道を越えて国中平野へと進み、北方に白雪を冠した大佐渡山脈を眺めながら、十一月一日に塚原の配所へと到着されたのです。

塚原の配所

 塚原の配所について、『種々御振舞御書』には次のように記されています。
「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪●(雨+包)・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり」(同一〇六二n)
 塚原の場所については、塚原根本寺説、畑野町説などの諸説がありましたが、本宗では目黒町説を採っています。
 この目黒町は、当時の佐渡守護所と推定される下畑より五百メートルの近場であり、「塚の腰」の地名があること、阿仏房の子息とされる藤九郎盛綱ゆかりの遺跡が近くにあることなど、塚原配所にふさわしい条件が揃っているからです。現在、この地には「塚原跡」碑が建立され、日蓮大聖人の史跡として整備されています。
 さてこの塚原跡に立ちますと、当時は刈萱が生い茂っていたようですが、今は広く田畑が広がっているのが見えます。佐渡島を上空から見ると、島の北方と南方に東西に広がる大佐渡・小佐渡の両山脈があり、その山脈に挟まれた国中平野は風の通り道であることが判ります。もともと遮るものが何もない大海の孤島である佐渡島の、さらに風の通り道にある国中平野ですので、この塚原の地は当然のように風が強く、天候が変わりやすい土地です。冬場には晴れ間と吹雪とが交互に訪れ、その風の強さによって、雪はこんもりと積もるのではなく、地面にへばりつき、また木々の幹にこびりつくように積もるという土地でした。
 配所の建物は塚原三昧堂といいます。建物自体が一間四方の物置のような建物を想起する人が多いようですが、実際は仏を安置する祭壇が一間四方で、さらにその外側に一間ずつの回廊を備えた一間四面堂と呼ばれる様式であったと考えられます。しかし壁や床の板間は合わず、その隙間からひっきりなしに雪交じりの寒風が吹き込んでくるようなみすぼらしい草堂で、そのような室内に敷皮を敷き、四六時中蓑を着て寒を防ぐ生活をされたのです。
 ここまで数人の弟子がお供をしてきましたが、こうした厳しい生活であることから、大聖人は日興上人お一人を残して、他の弟子たちを本国に帰らせました。
 『法蓮抄』には、この生活を述懐されて、
「北国の習ひなれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く、食ともし。(中略)昼夜耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝薯に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり、現身に餓鬼道を経、寒地獄に墜ちぬ」(同 八二一n)
と記されていますが、このような厳しい寒さの中にあって、大聖人はひたすら読経と唱題、法義講談の日々を過ごされたのです。

阿仏房夫妻の入信

 当時、佐渡に住む人々は因果の理も知らず、仏法の正邪も善悪も理解することがなく、荒い気性のままに大聖人に接していたようです。
 また『呵責謗法滅罪抄』に、
「此の佐渡国は畜生の如くなり。又法然が弟子充満せり。鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(同 七一七n)
とあるように、殊に念仏宗の勢力が強く、そのために念仏を厳しく破折する大聖人に対する風当たりは、なおのこと厳しいものがありました。
 阿仏房もその一人でした。念仏の強信者であった阿仏房は、大聖人のことを聞き、阿弥陀仏を冒涜する仏敵を自ら誅しようと、ひそかに塚原の三昧堂へとやってきたのです。
 しかしいざ堂内に入り、大聖人が合掌して唱題をするその尊容を見るや、たちまちに害意は消え失せました。阿仏房は居ずまいを正して大聖人に対面し、なぜ念仏を非難するのか、またなぜこのような流罪の身となったのかを質問しました。
 この問いに対し、大聖人は丁寧に念仏の教えが爾前方便の教えであって、真実の教えは法華経であることを説きました。それを聞いた阿仏房はたちまちに念仏を捨てて大聖人に帰依したのです。
 こうして信者となった阿仏房は、さっそく妻の千日尼に大聖人との対面の様子を話して入信させ、夫妻共に大聖人の信徒となったのです。
 さて流人には、その後見となる者より食料が支給されることになっていましたが、実際に大聖人に支給された食料は少なく、またお供の者の分までの食料はなく、草を摘んでは食とするような状況でした。
 さらに地頭や念仏者たちが、大聖人のもとへ誰も通うことができないように三昧堂の周辺を封鎖していましたが、そのような中、阿仏房は食料を納めた櫃を背負っては夜の暗がりに紛れて三昧堂へ行き、大聖人の生活を支えたのです。この老夫婦の外護の真心に、大聖人は、
「只悲母の佐渡国に生まれかわりて有るか」(同一二五三n)
と仰せられ、深く感謝されています。
 その後、国府入道夫妻も入信し、阿仏房同様に人目を忍んで三昧堂に食料を届けるなど、外護の誠を尽くしました。
 しかし、このように少しずつ信徒が増えていくにつれ、大聖人に帰依をした人々に対する迫害もまた増えていったのです。一方で、佐渡在島の、さらに近隣諸国に住む念仏宗をはじめとする諸宗の者たちが、大聖人を亡き者にしようとして、ひそかに策謀を凝らしていたのでした。

僧俗一致の大事

 さて『曾谷入道殿許御書』に、
「涅槃経に云はく『内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん』云云。(中略)今両人微力を励まし、予が願ひに力を副へ、仏の金言を試みよ」(同七九〇n)
と仰せられています。これは曽谷入道と太田乗明の両名に対し、末法の法華経の行者たる大聖人の弘法に、両人も力を合わせて精進するように勧められた御言葉です。
 佐渡の苦しい生活を阿仏房夫妻・国府入道夫妻が支えられたように、私たちは信徒の立場として御宗門を外から護ると共に、また御住職の御指導のもとに一致団結して、広宣流布に向かって精進してまいりましょう。