令和元年12月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 17

本間邸滞留・佐渡配流

 前回は、竜口法難における日蓮大聖人の御本仏としての御振る舞いを拝すると共に、発迹顕本の意義を学びました。
 今回は、その後の門下の動静と佐渡配流について学んでいきましょう。

依智本間邸

 明星天の奇瑞に先立つ九月十三日の戊の刻(午後九時頃)、幕府の使者が鎌倉から本間邸に立て文(書状)を届けていました。
 警固の武士たちは、大聖人の斬首を命令する再度の使者ではないかと思いましたが、そうではありませんでした。
 湯治のため熱海にいた北条宣時への報告前に届けられた書状は、ひとまず大聖人の身の安全を確保する内容であり、その追伸には、
「此の人(大聖人)はとがなき人なり。今しばらくありてゆるさせ給ふべし。あやまちしては後悔あるべし」(御書一〇六一n)
と記されていました。
 翌十四日の卯の刻(午前七時頃)、十郎入道という者が、昨晩の鎌倉での出来事を知らせるために、本間邸を訪れました。
 その報告によると、立て文が本間邸に届けられた同じ時刻に、執権・北条時宗の館で、
「大いなるさねぎ」(同一〇六二n)
が起こったと言うのです。
 そこで、陰陽師を呼び寄せて占わせたところ、「日蓮御房を咎めたために国が大きく乱れる兆しが現われたのである、急いで赦さなければ世の中がどうなってしまうか判らない」と答えました。
 これを聞いて「赦免にしたほうがよいでしょう」との意見が出されました。
 また、大聖人が九月十日の評定所への召喚の折に、
「還流死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より、ことには西方よりせめられさせ給ふべし。其の時後悔あるべし」(同一〇五七n)
と、平左衛門尉に申し付けていたことから、「百日の内に戦が起こると言うのだから、それを待って判断すればよいのではないか」と言う者もいました。

弟子檀那の動揺

 こうして、評定が再三行われたものの処遇は決定せず、
「えちの六郎左衛門尉殿の代官右馬太郎と申す者あづかりて候が、いま四・五日はあるべげに候」(同 四七七n)
と示されるように、四、五日の滞在であったはずの本間邸に、しばらく留められることになりました。
 その間、鎌倉では七、八回の放火があり、殺人事件も頻繁に起こりました。
 それらの事件について、幕府には、
「日蓮が弟子共の火をつくるなり」(同一〇六二n)
「日蓮が弟子の所為なり」(同一〇七四n)
との訴えがもたらされました。
 幕府はこれを聞き入れ、
「日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからず」(同一〇六二n)
と、要注意人物として大聖人の弟子檀那二百六十余人を選び出しましたが、皆還流にすべきである、既に牢に入れた弟子は首を刎ねるべきであるなどの噂が立つほどでした。
 これらの事件や讒言は、すべて持斎(八斎戒を持つ僧侶、ここでは極楽寺良観の弟子を指す)や念仏者の仕業であり、大聖人もろとも、弟子檀那を一掃せんとの思惑が働いていたのです。
 こうして門下にも迫害と苦難が及び、所領を失った者、主家を追われて扶持(給与)を奪われる者が出てきました。
 たいへん多くの弟子檀那がこれに耐え切れず、『新尼御前御返事』に、
「かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(同 七六五n)
と御示しの如く、信仰を捨て大聖人のもとを去ってしまったのです。
 そこには『上野殿御返事』に、
「大魔のつきたる者どもは、一人をけうくんしをとしつれば、それをひっかけにして多くの人をせめをとすなり。(中略)事のをこりし時、たよりをえておほくの人をおとせしなり」(同一一二三n)
と示されるように、退転するだけではなく大聖人を批判する者、竜口法難以前に大聖人から離れ、この法難に乗じてさらに多くの人を退転させようと画策した者がいました。
 大聖人は御本仏としての御立場から、このような者たちに対しても、『佐渡御書』で、
「日蓮がかくなれば疑ひををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし」(同 五八三n)
と、大聖人を迫害する念仏者よりも重い罪となり、長く地獄で苦しむ様を嘆かれています。

門下への激励

 門下全体に及ぶ迫害の中、『破良観等御書』に、
「弟子等数十人をろうに申し入るゝ」(同一〇七四n)
とあるように、実際に捕らえられて牢に入れられる者も数十人に上りました。
 この時、日朗をはじめとする五人の弟子檀那も、幕府によって捕らえられ、土籠に幽閉されています。
 既に季節は初冬に差しかかっており、大聖人は、
「今夜のさむきに付けても、ろうのうちのありさま、思ひやられていたはしくこそ候へ」(同 四八三n)
と五人を思い、本間邸滞在中に二通の書状を送り励まされています。
 また、下総国(主として千葉県北部)の信徒を心配され、その中心的役割を担っていた太田左衛門尉・曽我教信・金原法橋に宛てて、十月五日に『転重軽受法門』を送られました。
 同じく浄顕房・義浄房をはじめとする清澄寺の大衆には、同月初旬に『佐渡御勘気抄』を送られています。
 このように大聖人は、弟子檀那に対する為政者・念仏者等からの迫害に思いを巡らせ、信心を貫き通すようできる限り激励され、それに応えて、少数ながらも強盛に妙法の信仰を護り抜く弟子檀那の姿がありました。
 一方、大聖人御自身は、竜口の頸の座と、もはや避けようのない遠流の難について、まさに法華経の身読であるとしてその法悦を綴られています。

寺泊の津

 結局ひと月近く依智本間邸に拘留されていた大聖人でしたが、種々の讒言の影響もあり、当初言い渡されていた佐渡配流との処遇が決定されました。
 出発の十月十日、大聖人にお供をしたのは日興上人をはじめわずかの弟子方と富木常忍から遣わされた入道で、それに警固の武士数名が付き添いました。
 大聖人は佐渡への行程を『寺泊御書』に、
「今月十月なり十日、相州愛京郡依智郷を起って、武蔵国久目河の宿に付き、十二日を経て越後国寺泊の津に付きぬ。此より大海を亘って佐渡国に至らんと欲す」(同 四八四n)
と記されています。『法蓮抄』に、
「鎌倉を出でしより日々に強敵かさなるが如し。ありとある人は念仏の持者なり。野を行き山を行くにも、そばひらの草木の風に随ってそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ」(同 八二一n)
と仰せられているように、大聖人一行を念仏の敵と見なす人々が非常に多く、道中、心の休まる時間はありませんでした。
 それでも鎌倉街道から北国街道を経て、日本海側の直江津、そして船着き場のある寺泊(新潟県長岡市)へと到着したのです。
 ここで大聖人は、
「此の入道、佐渡国へ御供為すべきの由之を承り申す。然るべけれども用途と云ひ、かたがた煩ひ有るの故に之を還す。御志始めて之を申すに及ばず。人々に是くの如くに申させ給へ」(同 四八七n)
と、富木常忍から遣わされた入道を下総に帰されました。
 何カ月、はたまた何年過ごすことになるのかも判らない、佐渡での生活費用の問題もさることながら、連れていくことで富木常忍へ迷惑が及ぶことを大聖人が考慮されたものと拝されます。
 寺泊から佐渡へは、小舟で冬の日本海を渡らねばならず、大聖人一行は順風を待って数日間、寺泊に滞在されました。
 次回は、佐渡の配所の様子や入島後の出来事などについて学んでいきましょう。