令和元年7月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 14

策謀をめぐらす艮観たち

 前回学んだ通り、文永八(一二七一)年六月十八日から始まった極楽寺良観の祈雨は、干ばつが悪化し暴風が吹き荒れる結果となり、完全に失敗に終わりました。
 そもそも祈雨というのは、その降った雨の様子を見て功力を評価するものですが、良観の祈雨はそれ以前の問題だったのです。
 この六月十八日は現在の暦では八月二日に当たりますから、ついには八月中旬まで干ばつが続いてしまったことになります。このことからも、人々の欺歎き、農作物への打撃は相当のものであったと考えられます。
 そこで日蓮大聖人は、良観に弟子を遣わして、
「人々の歎きはますます深まっている。速やかにその祈りを止めなさい(趣意)」(御書一一三二n)
「一丈の堀を越えられぬ者が十丈二十丈の堀を越えることができようか(中略)能因法師は破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らしたのに、二百五十戒を持つ人々が集まって十四日間も祈ったのに雨が降るどころか大風が吹く始末である。これをもって知りなさい。あなたたちの極楽往生は叶わないものであると(趣意)」(同一〇五八n)
と伝え、良観はあまりの悔しさに涙を飲んだのでありました。
 この良観の失敗は、それに協力した鎌倉の諸大寺にとっても大きな恥辱となったのです。祈雨の勝負に負けた良観は、かねての約束通りに大聖人の弟子になるどころか、これらの諸大寺の高僧らと策謀をめぐらす有り様でした。
 その策謀とは、浄光明寺の、念阿弥陀仏(然阿)良忠の弟子行敏(乗蓮)を表に据え、大聖人への問難の書状を書かせて対決させようとしたのです。
 行敏は直ちに問難状を認めて、次の四点の疑難を大聖人に提出しました。
「風聞した通りであれば、日蓮御房の主張する教義には不審がある。すなわち、
(1)法華経以前の爾前経は、すべて妄語であり生死の苦しみから離れる法ではないということ。
(2)大小の戒律は世間を惑わせ悪道に堕す法であること。
(3)念仏は無間地獄に堕ちる業であるということ。
(4)禅宗ば天魔の説で、その修行をする者は悪見を増長するということ。
 右を御房が本当に言ったのであれば、貴辺は仏法の怨敵である。よって、対面を遂げてその悪見を破ろうと欲するものである(趣意)」(同 四七一n)
 この間難状は、僧・行敏の名前となっていますが、その背後には極楽寺良観のほか、念阿良忠、道阿弥陀仏等の鎌倉諸大寺の人々がいました。正しく自分たちは高徳の僧と仰がれながらも、その裏で他人を使って法華経の行者を迫害する僣聖増上慢の面目躍如の振る舞いですが、その狙いは私的な問答に大聖人を引っぼり出して屈服させようとしたところにあったのです。
 彼らの悪巧みを見抜いていた大聖人は、かえってこの機会をとらえて公場対決によって正邪を決しようとお考えになりました。そして、行敏には次のように返事をされたのです。
「行敏御房が不審に思うことについて、私的な問答ではなく、御房より上奏を経られて、その仰せくだされるところの趣旨にしたがって、是非を糾明するべきである。このように公場にて正邪を決することこそ、願うところである(趣意)」(同 四七二n)
 こうして私的な問答を仕掛けようとした思惑は外れ、行敏らは幕府問注所へ大聖人を謗ずる訴状を提出したのです。

行敏の訴状

 当時の通例に従って、その訴状は問注所から大聖人のもとへと届けられ、直ちに大聖人は答弁となる陳状を認められました。これが『行敏訴状御会通』です。
 さて、行敏らの訴えは次の通りでした。
@八万四千の経教を、一を真実として他を非とするのは道理ではなく、その考え方こそ謗法でる。
A日蓮房は法華経に執着して他の大乗の教えを誹謗している。
B日蓮房は法華経以前の諸経を妄語とした。
C日蓮房は禅宗を天魔の教え、戒律を世間を誑かす法であると言った。
D人々の信仰せるところの本尊、阿弥陀や観音などの尊像を火に焼き、水に流した。
E凶徒を草庵に集めている。
 右内容の一つひとつに対して大聖人は反論を加えられています。すなわち、
@〜Cの内容は、大聖人自身の言葉ではなく、釈尊自身の御言葉(「四十余年未顕真実」など)によるものであること。
Dは身に覚えのないことで、確かな証人を呼び出して事実を糾明すべきであり、もし証人がいなければ大聖人に罪を着せるための陰謀である。
Eについては、法華経守護のための弓箭刀杖は仏法に定まれる法である。
 そしてこれらの陳述に続けて、こうした訴えの根源が極楽寺良観にあり、良観が自らの邪義を覆い隠すため、日蓮房は阿弥陀仏の怨敵であり、首を切り追放せよと言いふらしていることを述べられています。
 つまるところ訴状の内容(特にD)は、良観らによる大妄語であり、宗教の正邪を糾明せずに、ただ権力者に取り入って悪感情をかき立てさせ、もって大聖人とその門下に迫害を加えようとしたものであったのです。
 しかし良観らによる悪質な策謀を信じ込んだ、北条時頼の妻であり時宗の母である後家尼御前をはじめとする、権力者の女房たちが、執権ら北条氏一門並びに幕府要人たちに大聖人の処罰を強く迫ったのです。その様子が後年の『報恩抄』に次のように記されています。
「多くの禅僧・念仏者・真言師たちが、幕府の奉行人、権力者、権力者の女房や時宗の母の後家尼御前に無数の讒言をしたために、最後には『天下第一の大事』『日本国を滅ぼそうと呪う法師である』『故最明寺殿(時頼)や極楽寺殿(重時)のことを無間地獄に堕ちたりという法師である。御尋ねするまでもなく、直ちに日蓮房を斬首し、その弟子たちも斬首や流罪などに処分すべき』と、後家尼御前たちが瞋りをなして強く訴えたので、その主張のままに行われたのである(趣意)」(同一〇二九n)
 こうして良観らの策謀によって事態は大きくなり、大聖人は幕府評定所へ召喚されることとなったのです。

評定所への召喚

 時に文永八年九月十日、大聖人は評定所へ召喚され、北条家の家司であり侍所の所司である平左衛門尉頼綱と対面しました。
 頼綱は大聖人に、「故最明寺入道殿、極楽寺殿の死去に対し無間地獄に堕ちたと公言しているのか。建長寺・極楽寺等を焼き払え、道隆上人や良観上人等の首をはねよと言っているのか」と尋問しました。
 これに対して大聖人様は、
「上件の事一言もたがはず申す」(同一〇五七n)
と答えられ、ただし、謗法を捨てて正法に帰依しなければ地獄に堕ちるであろうとの諌言は、故最明寺殿・極楽寺殿が存命の時から申し上げてきたことであって、死後初めて堕地獄であると言い出したとするのは、訴人の虚言であると申し述べられました。
 また、堕地獄となると主張したのはこの日本国を思うためであり、蒙古襲来が現実に迫っている今、この国の安穏を思うのであれば、訴人を召喚して大聖人と対決させてから、両人の主張をもって判断するようにと仰せられたのです。
 大聖人は、さらに次のように申しつけられました。
「もし幕府が一方的に訴人の訴えの通りに、理不尽に法華経の行者である大聖人を処罰するならば、国内の同士討ち(自界叛逆難)と蒙古襲来(他国侵逼難)が起こり、後悔するであろう(趣意)」(同)
 この権力を恐れない堂々とした反論に、かえって頼綱は憎悪の念に駆られ、瞋りを露わにしたのでありました。実は、この尋問は開かれこそしたものの、この時既に大聖人の処罰は定められていたのです。
 こうして、祈雨の勝負に負けた良観をはじめとする人々の悪意が大聖人と門下を取り囲み、策謀によって、いよいよ竜の口法難へと続いていくのです。
   ◇   ◇
 私たちは、この一連の出来事を単なる歴史上の一事件とのみとらえるのではなく、我が身に当てはめて拝し、難に直面したときには自らも魔に負けない不退転の覚悟を持つことが大切です。