令和元年6月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 13

他国侵逼難の兆候

 前回は、小松原法難後に起こった種々の出来事について学びました。
 今回は、『立正安国論』に予言された二難のうち、他国侵逼難の兆候が現われてきた当時の様相を学んでいきましょう。

蒙古の使者

 日蓮大聖人の御生涯を学ぶ序章として、御在世である十三世紀当時、蒙古国(モンゴル帝国)がユーラシア大陸の大半に及ぶ勢力を誇っていたことに触れました(大白法九七八号参照)。
 文永五(一二六八)年一月、その蒙古国から日本へ、高麗の使節団によって初めての国書がもたらされました。「蒙古国牒状」、あるいは「大蒙古国皇帝奉書」と称されるその書状は、通交関係を求めるものでしたが、日本に朝貢を促し、武力行使をほのめかす高圧的な内容でした。
 国書は、まず大宰府から鎌倉幕府に届けられ、その後朝廷に回送され、対応について評定が開かれました。結局、返答無用となり、七カ月後に高麗の使節団は帰還しています。
 その間、幕府は蒙古襲来に備えるよう御家人に通達すると共に、得宗家の北条時宗が十八歳で執権となり、権力の一元化を図りました。また、蒙古の求めに一切応じない姿勢を貫く一方、諸大社・寺院に蒙古調伏(撃退)の祈祷を命じました。
 蒙古国書の到来は、たちまち世間に弘まり、鎌倉はおろか日本国中が緊張に包まれる事態となりました。
 かつて大聖人が、文応元(一二六〇)年の『立正安国論』に予言されていた「他国侵逼難」が、ついに現実の問題として現われてきたのです。
 蒙古の来牒を耳にされた大聖人は、四月五日に『安国論御勘由来』を著されました。
 この書には、『立正安国論』御著述の縁由と提出に至る経緯、このたびの来牒による勘文(『立正安国論』)に記した予言の的中、そして蒙古国対治の方途を知るのは大聖人お一人であることが明かされています。
 『安国論御勘由来』を送られた相手の法鑑房については、入道していた平左衛門尉頼綱の父盛時であるとする説と、北条家に近い出家僧であるとする説がありますが、定かではありません。確かなことは、書中に『立正安国論』を北条時頼に取り次いだ、宿屋入道との対面に関する記述があることから、幕府に近い立場の人物であったということです。
 しかし、法鑑房からの返事はなかった様子で、四カ月以上が経過した八月二十一日、大聖人は今度は宿屋入道に書状を認められ、新しく執権となった北条時宗への内奏を計られました。

十一通の諌状

 大聖人は、翌九月に再び宿屋入道へ書状を送られましたがいずれも返報はなく、公場において法の正邪を決する以外にないと、十月十一日に諌状を認められました。
 その宛先は、北条時宗、宿屋左衛門光則(宿屋入道)、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺の十一カ所であり、これが十一処へ直諌状(十一通御書)です。
 そのうちの一通に、
「敢へて諸宗を蔑如するに非ず。但此の国の安泰を存ずる計りなり」(御書 三八〇n)
と仰せのように、大聖人の烈々たる諸宗破折ば、日本国の安泰と民衆の平安を願う一念から起こるものだったのです。
 しかし後年、大聖人が『種々御振舞御書』(御書一〇五五n)に当時の様子を述懐されているように、幕府の要人や諸宗の僧侶等は、返事をしないばかりか、かえって諌状の使者に悪口を言う者までいました。
 さらには、大聖人に対して「頸を刎るべきである」「鎌倉から追い出すべきである」、その弟子・檀那についても「所領を没収して頸を切れ」「牢に入れよ」「遠流せよ」などと、謀略を巡らす有り様でした。
 大聖人の破折と御指摘は、彼らが怒りを覚えるほどに、仏法の正邪と権力者の本質を突くものだったと言えます。
 こうした事態を予見されてか、大聖人は諌状を送られた同日に、『弟子檀那中への御状』を認められています。
 この御状は、大聖人が十一カ所へ諌状を送られたことに伴い、一門へ不惜身命の覚悟を促されるものでした。
 御状に、
「定めて日蓮が弟子檀那、流罪死罪一定ならんのみ。少しも之を驚くこと勿れ。(中略)少しも妻子眷属を憶ふこと莫れ、権威を恐るゝこと莫れ。今度生死
の縛を切りて仏果を遂げしめ給へ」(同 三八〇n)
と。
 妙法のために流罪・死罪は定まったことであると覚悟し、妻子・眷属に気を引かれることなく信心を貫き通すよう御教示されています。

再びの使者と『安国論奥書』

 以後も幕府側からの正式な返答はありませんでしたが、大聖人や弟子・檀那に直接的な危害が加えられることもありませんでした。
 文永六年頃まで、大聖人が主として破折されてきたのは念仏宗と禅宗でしたので、他の真言宗等は大聖人の書状を我が事として受け止めておらず、幕府としては伊豆配流赦免の際の事情もあり、再び罪なき大聖人を処罰することに踏み切れなかったのかも知れません。
 しかし文永六年、蒙古は返書を求めて再三日本に使節を派遣し、あるときは対馬の島民二人を捕らえるなど、情勢は緊迫の一途をたどっていました。
 この年も大聖人は、再びの諌状を各所へ送るなど日本国の安寧を祈り、諸宗破折を絶えず続けられていましたが、十二月八日に至り、『立正安国論』を書写されると共に奧書を認められています。
 この奥書には、
「又同六年重ねて牒状之を渡す。既に勘文之に叶ふ」(同 四二〇n)
と、再びの牒状到来について記されると共に、
「之に準じて之を思ふに未来も亦然るべきか」(同)
と、今後必ず国難が起こるであろうと仰せられています。
 これより以後、大聖人の破折は真言宗にも向けられるようになり、いよいよ邪宗が結託し、大聖人への敵対心を露わにし始めたのです。

極楽寺良観の祈雨

 文永八年は、五月頃から全国的に干ばつが続き、農作物に多大な被害が出たために人々は困窮しました。
 幕府は、財政の維持と民衆の救済を目的として、極楽寺良観(忍性)に雨乞いの祈祷を命じました。
 良観は真言律宗の僧侶で、療病院や悲田院などの福祉施設を振興するなどして、人々から生き仏のように崇められていました。
 良観が、六月十八日から七日間の祈祷を行うと聞かれた大聖人は、仏法の正邪を広く知らしめる機会であるとお考えになり、良観の弟子に次のように伝えられました。
「七日以内に雨を降らせたならば、日蓮は念仏が無間地獄への法であると申してきた法門を捨てて、良観上人の弟子となって小乗の二百五十戒を持とうではないか。その代わり雨が降らなければ、良観房は持戒者のように見えるけれども、その法門は人を惑わす悪義であることが明らかとなるであろう(中略)その時はひたすらに法華経を信仰せよ(趣意)」(同一一三一 n)
 この祈雨に際しての約束を受諾した良観は、百人以上の弟子たちと共に祈りましたが雨が降る気配はありませんでした。
 良観は祈祷を失敗するわけにはいかず、恥をかなぐり捨て、四・五日経過後に迫って数百人の弟子を呼び寄せ、さらに十四日間に期間を延長するなどしました。
 しかしながら、最後まで雨が降ることはなく、干ばつは悪化して暴風が吹き荒れ、より一層、人々を苦しめる結果となりました。
 どんなに外面を取り繕い、日頃人々から崇められようとも、正法を前にして謗法者の祈りが叶うはずはなかったのです。
 次回は、極楽寺良観の祈雨の失敗以後、竜の口法難へと至る背景について学んでいきましょう。