令和元年5月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 12

教線拡大と御母の逝去

道善房との再会


 小松原において、東条景信による襲撃に遭われた日蓮大聖人は、花房の蓮華寺に身を置かれました。
 そして、三日後の文永元(一二六四)年十一月十四日、景信による襲撃事件を知った旧師の道善房は、大聖人の身を案じて蓮華寺へ訪ねてきたのです。この時、大聖人は宗旨建立以来、景信の妨害によって疎遠となっていた道善房に対して師恩を報ずるため、道善房が帰依する念仏の邪義を破折され、妙法に帰依するよう説かれました。この折伏が契機となり、後に道善房は妙法に帰依するのですが、心では妙法に帰伏しつつも、ついには念仏を捨てることができませんでした。
 なお、再会より十二年後の建治二(一二七六)年三月十六日に道善房は死去し、この知らせを受けた大聖人は、同年七月二十一日に『報恩抄』を述作され、弟子の日向に託して安房清澄寺の浄顕房・義浄房のもとへ送られました。そして故道善房の墓前と嵩が森の頂にて読み上げるよう指示され、幼少の頃より学問の手ほどきを受けた師への恩に報いられたのです。

東条景信の死
(念仏は無間地獄の業因)


 文永元年九月二十二日述作の
『当世念仏者無間地獄事』には、
「日本国中の四衆の人々は形は異なり替はると雖も、意根は皆一法を行じて悉く西方の往生を期す。仏法繁盛の国と見えたる処に一の大いなる疑ひを発こす事は、念仏宗の亀鏡と仰ぐべき智者達、念仏宗の大檀那たる大名小名並びに有徳の者、多分は臨終思ふ如くならざるの由之を聞き之を見る」(御書 三一三n)
とあり、また同抄に、
「念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」(同 三一四n)
と仰せられています。
 すなわち、念仏に帰依する高僧や大檀那の臨終は非常に苦しんだ末に悶死することが多く、それは、かつての松葉ケ谷の草庵襲撃を先導した極楽寺重時(北条重時)や、小松原における襲撃の首魁である東条景信も例外ではありませんでした。
 景信は小松原の法難の後、日ならずして狂死したと言われています。
 これについて大聖人は、
「彼等は法華経の十羅刹のせめをかほりてはやく失せぬ」(同一〇三〇n)
と仰せられ、法華経の行者を苦しめた現罰として、十羅刹の責めを受けた結果であることを御教示されています。
 そもそも念仏(浄土宗等)の教義は、穢れた国土である娑婆世界より、浄い国土である西方極楽世界に往生を願うというものですが、法華経の開経である『無量義経』には、「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二三n)
とあり、『方便品』には、「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(同一二四n)
とあるように、法華経が説かれる以前の経教(爾前経)は、すべて法華経に導くための方便の教えであり、法華経のみが真実の教えであることが明かされているのです。
 つまり、念仏の所依とする経典(浄土三部経)は、すべて釈尊が正直に捨てよと説かれた方便の経典なのです。ところが日本浄土宗の開祖法然は、その著、『選択本願念仏集(選択集)』において、真実の教えである法華経を、捨てよ、閉じよ等(捨閉閣抛)と誹謗したのです。これは法華経に背く大謗法罪に当たりますから、念仏を信仰する人々も極楽往生などはおろか、無間地獄に堕ちることは必定であり、それが臨終の際の悪相として現われたのです。

南条家墓参

 大聖人は、小松原法難の翌文永二(一二六五)年より鎌倉を中心として、房総各地の弘教にも励まれ、その教線は上総・下総・安房へと広がりました。
 そのような中、同年三月八日、かねてより重病であった駿河国上野の信徒であった南条兵衛七郎が逝去し、その知らせを受けた大聖人は、鎌倉よりわざわざ上野の南条家を訪れられ、墓前にて懇ろに御回向されたのです。
 御家人である南条兵衛七郎は、鎌倉へ出た際に直接大聖人から教化を受けて入信し、夫人をはじめ一族を正法に導き、純真な信仰を持った方でした。
 この兵衛七郎の子息が南条時光殿です。
 この時の時光殿は、わずか七歳の少年でしたが、父亡き後も母からの薫陶と日興上人の厳しい訓育によって南条家の跡取りとして、また、信仰者としても大きく成長を遂げ、後に大石寺開創の大檀那となります。
 またこの頃、後の六老僧に数えられる日向が入門し、信徒では上総の佐久間兵庫助童貞が一家を挙げて入信し、長男の長寿麿(美作公日保)が大聖人の弟子に加えられました。

『法華題目抄』

 さて、この頃に著された御書に『法華題目抄』があります。
 本抄は、文永三(一二六六)年一月六日、大聖人御年四十五歳の時に著され、内容から念仏に執着している女性に宛てた御消息と拝されます。
 本抄の大意を総本山第二十六世日寛上人の『法華題目抄文段』から拝すると、
「文の初めに能唱の題目の功徳を明かし、次に所唱の妙法の具徳を明かす。是れ則ち能唱の功徳の広大なる所以は、良に所唱の具徳の無量なるに由るが故なり」(御書文段 六四九n)
と御教示のように、「能唱の題目」すなわち、唱題の功徳を明かす部分と、「所唱の妙法」すなわち、唱えられる妙法に具わる徳を明かす部分の二つに分けられます。
 まず「能唱の題目」では、信の題目、すなわち信心が重要であり、その上から唱題をしていくことが、あらゆる罪業を消し去り、無量の功徳を具えていくことを示されています。偉大な御本尊の仏力・法力を顕現するのは、衆生の信力・行力にあり、信心の実践こそが重要であると拝することができます。
 次の「所唱の妙法」では、妙法蓮華経の五字には一切の経典の功徳が納まる故に、衆生はこの五字を信じて唱題することで、その一切の功徳が具わることを明かされ、特に妙の一字に具わる徳については、一切の経典の功徳を飲む義(具足円満)から、一切衆生の盲目を開く義でもあると説かれています。
 さらに、
「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書 三六〇n)
と仰せのように、爾前経では仏の種子を焦って成仏できないとされた二乗(声聞・縁覚)、一闡提人(正法誹謗の重罪の者)、女人のいずれも妙法蓮華経の妙の一字を受持することで、仏種が蘇って芽を出すように、成仏に至ることができると仰せられています。
 特に日本国の一切の女人が妙法の題目を唱えずに念仏に執着する理由は、悪知識に誑かされているからであると喝破され、念仏こそ女人の敵であり、心を改めて妙法の題目を唱えるよう御教示され、本抄を結ばれています。
 つまり本抄は、妙法蓮華経の御本尊には無量の福徳があり、信心の実践によって、どのような人であっても大きく境界を開いていけることを示されているのです。

御母・妙蓮の逝去

 大聖人は、文永三年から文永四年にかけて、主に上総、下総を弘教され、この時、後の六老僧の一人である日頂が入門し、さらに教線も常陸や下野へと広がりました。
 このような折、かつて病を患い、大聖人の心からの平癒の祈念によって寿命を長らえた御母・妙蓮が、文永四年八月十五日、安祥として逝去されました。
 各地の布教に奔走されていた大聖人にとって、御母の逝去はとても辛く悲しい出来事であったと拝されます。
 しかし、翌文永五年には、武力行使によって勢力を拡大していた蒙古帝国が、ついに日本を属国とすべく使者を送ってくることになります。
 これにより、かねて大聖人が『立正安国論』で予言した「他国侵逼難」が現実のものとなり、日本(鎌倉幕府)は、風雲急を告げる事態となっていくのです。