平成31年4月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 11

伊豆配流の御赦免から小松原法難まで

 前回は、伊豆配流の身となった日蓮大聖人が、相模灘を護送されて川奈の津へと到着された際、困窮していたところを船守弥三郎に助けられ、その夫婦より外護を受けたこと。そして、配流地である伊東の地頭・八郎左衛門の病気平癒の祈祷を行い、その結果、病が癒え、八郎左衛門は念仏を捨てて大聖人に帰依し、御礼として海中より引き上げられた一体の釈迦立像仏を御供養したこと。さらには伊豆配流中に著された『四恩抄』『教機時国抄』の概要を紹介し、最後に伊東八郎左衛門より御供養された一体仏の釈迦立像について学びました。

御 赦 免

 今回は、伊豆配流を御赦免になられるところから、拝していきます。
 この伊豆配流は、もともと『妙法比丘尼御返事』に、
「念仏者等此の由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかなはざりしかば、長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ」(御書一二六三n)
と示されているように、松葉ケ谷の襲撃で大聖人を殺害できなかった極楽寺重時(北条重時)、執権・北条長時の父子、念仏宗の僧徒たちが策謀した冤罪であり、理不尽極まるものでした。
 そのため、『下山御消息』には、「正法に背く一闡提の国敵である法師らの讒言を信用して、その内容を吟味せずに、何の詮議もなく大事な政道を曲げられたのは、わざと災いを招こうとされたのか、全くはかないことである。しかし、事態が鎮まってみると、無実の罪で罰したことが恥ずかしかったたか、間もなく赦免となり、鎌倉へ戻されたのである」とあります。
また、『聖人御難事』には、
「故最明寺殿の日蓮をゆるしゝ(中略)は、禍なかりけるを人のざんげんと知りて許しゝなり」(同一三九七n)
と記され、『破良観等御書』にも、
「最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれて、いそぎゆるされぬ」(同一〇七九n)
とあるように、前の執権・北条時頼が、念仏宗の僧徒をはじめ、極楽寺重時・長時父子らの悪計によって幕府が無実の大聖人を罰したことに気づき、すぐに赦免の措置をとりました。
 こうして、弘長三(一二六三)年の二月二十二日、大聖人は、一年九カ月にわたる伊豆配流を御赦免になられ、鎌倉へ帰還されました。

御母・妙蓮の蘇生

 翌文永元(一二六四)年の秋、大聖人は、御母・妙蓮の危篤の報せを受け、立宗宣言以来、十二年ぶりに故郷の安房へと急ぎ向かわれました。
 十二年ぶりの帰郷になったのも、幕府の要人である極楽寺重時、執権・長時父子、そして地頭・東条景信らの念仏者たちに阻まれて、安房の国東条の郷へ入ることができない状況であったからです。特に地頭の景信は、立宗宣言の時に念仏の信仰を破折ざれた恨みに加えて、名越領家の尼の領地内にあった清澄寺と二間寺を奪って、念仏の寺に改宗させようと悪計を働いていたところを、大聖人の祈願と適切な指導によって裁判が領家側の勝利となってしまい、大聖人に対する憎悪と怨念を一層強くしていきました。
 大聖人は、故郷の安房に戻れば、地頭の景信に命を奪われるかも知れない状況の中で御母の危篤の報せに、我が身を顧みず帰省されたのです。
 悲母は、
『伯耆公御房消息』によると、「ひとゝせ御所労御大事にならせ給ひ候て」(同一五八九n)
と述べられているように、一年ほども前から重い病に罹っていたようです。大聖人が御到着されたときには、懐かしい母はまさに臨終の状態でしたが、『可延定業御書』に、
「されば日蓮悲母をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(同 七六〇n)
と、大聖人の心からの御祈念によって、悲母は日ならずして快復し、四年の寿命を延ばされました。
 大聖人の孝養の一念は、
「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」(同 三六〇n)
とあるように、悲母の現身に妙法不思議の力用を現わされたのです。

小松原法難 東条景信の襲撃

 その後、大聖人は安房の地に留まり、花房の蓮華寺を拠点に布教に専念されていました。大聖人の帰郷を聞いた天津の領主・工藤吉隆は、大聖人の来臨を願いました。
 工藤吉隆は、大聖人の伊豆配流中にも御供養を申し上げ『四恩抄』を賜っていることから、早くから大聖人の御化導によって帰依し、外護を尽くした安房地方における有力な篤信の信者であったことが想定されます。
 大聖人は吉隆の願いを受け、十一月十一日、弟子と信者の十人ばかりの供を連れて、花房の蓮華寺から、吉隆がいる天津の館に向かわれました。既に辺りは暗くなりかけていた頃、大聖人の一行が松原の大路にさしかかったとき、突如、東条景信が数百人の武装した念仏者を率いて、襲いかかってきたのです。
 この時の様子について大聖人は、『南条兵衛七郎殿御書』に、
「今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわずかに三四人なり。いるやはするあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり」(同 三二六n)
と述べられているように、弟子の鏡忍房はその場で打ち殺され、急報を受けてわずかの手勢を率いて駆けつけた工藤吉隆も死力を尽くして防戦しましたが瀕死の重傷を負い、それがもととなって間もなく殉死したと言われます。その他の者も深手を負い、大聖人御自身も景信が切りつけた太刀によって右の額に深手を負われ、左手を骨折されるという、命に及ぶ大難を蒙られたのです。

日本第一の法華経の行者

 先ほど引用した『南条兵衛七郎殿御書』の御文の続きには、「このように難に遭うこと自体、法華経の予言通りであり、法華経の確信を増すばかりである」と述べられています。そして、法華経『法師品第十』の、
「而も此の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」(法華経 三二六n)
の文、法華経『安楽行品第十四』の、
「一切世間に怨多くして信じ難し」(同 三九九n)
の文を引用され、これらの経文の通りに、法華経の弘通のために、小松原の法難をはじめとする様々な命に及ぶ大難を受けられた御自身を、「ただ日蓮一人こそ法華経を身をもって読んだのである。まさに法華経『勧持品第十三』の『我身命を愛せず但無上道を惜しむ』の経文の通りである。故に日蓮は日本第一の法華経の行者である」と宣言されています。
 続いて大聖人は、真の法華経の行者であるとの御自覚から、
「もしさきにたゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ」(御書 三二六n)
と仰せられ、対告衆である南条兵衛七郎殿の信心を励まされています。
 次回は、教線拡大と御母の逝去について学んでいきましょう。