平成31年2月16日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 10

伊豆法難

 伊豆へ配流の身となった日蓮大聖人は、相模灘を護送され、川奈の津に降ろされてしまいます。この時、『船守弥三郎殿許御書』に、「船よりあがりくるしみ候ひき」(御書 二六一n)
とあるように、見知らぬ土地に途方に暮れられたか、あるいは拘束により体も心も休まる暇なく疲れ果ててしまわれたか、いずれにせよ、たいへんに苦しまれておりました。
 そこへ一人の漁師が通りかかり、大聖人をお助けして、妻と共に三十日もの間お護りしたのでした。
 この夫婦が船守弥三郎夫妻です。大聖人はこの夫妻に対し、あるいは過去の法華経の行者か、ご自身のご両親が生まれ変わられたのであろうか、はたまた諸天善神が弥三郎夫妻と生まれたのであろうかと仰せられ、その感謝の思いを綴られています。
 弥三郎夫妻は、食物の乏しい時期にもかかわらずに食事を用意し、さらに大聖人のおみ足を洗うなど、心を尽くしてお仕えしたのでした。そして、折々に大聖人の教えを受けて法華経を信じるようになり、深く帰依して信徒となったのです。

地頭の帰依と伯耆房の参着

 さて配流先となった伊東の地は、伊東八郎左衛門が地頭を務める土地であり、大聖人の身柄も八郎左衛門の監視下に置かれることになりました。
 念仏の信者であった八郎左衛門でしたが、この頃、病に罹ってしまいます。日に日に病状は重くなり、四方八方手を尽くして治療に当たっていたのですがその効なく、最後の頼みと大聖人のもとへ、病気平癒の祈祷が依頼されたのでした。
 この時、八郎左衛門が一分なりとも信仰の心を示したことを受け、大聖人はその平癒を祈られました。その結果、あれほど手の打ちようがなかった病が、見事に癒えたのです。
 八郎左衛門はそれまでの念仏を捨て大聖人に帰依しました。そ
して、海中より引き上げられた一体の釈迦立像仏を、大聖人に御供養申し上げたのです。
 さて、時期は不明ながら、伯耆房(日興上人)が大聖人にお給仕をするために、鎌倉よりやって来
られました。
 十七歳の伯書房は、お給仕の傍ら、伊東の近辺を教化され、やがて宇佐美・吉田といった所に信徒が増えていきました。さらに熱海まで足を延ばされて、真言宗の僧であった金剛院行満を帰伏させたと伝えられています。

法華身読の喜びと慈悲の歎き

 伊豆配流中に記された『四恩抄』には、伊豆での御生活は大聖人にとって、大いなる喜びと歎きとの両面があったと仰せられています。
 まず大いなる喜びとは、法華経身読の喜びです。「配流になったのも、ただ法華経を弘めようとする失によってであり、法華経を深く信じ行ずるが故に悪鬼に嫉まれ、起きた難である。こうして配流になっているということ自体が、如来の滅後には在世以上に怨嫉が多いと説かれた法華経の御文の通りで、昼夜二十四時間法華経の修行をしていることに当たる。よって、迫害を加えた幕府等こそ、かかる法華経の身読をもたらした恩深き人々である」と述べられています。
 古の行者は法のために身を捨てたのであり、大聖人も今、四恩を報ずるために、法華経を弘め難を受けられたのでした。
『四恩抄』における四恩とは一切衆生の恩、父母の恩、国主の恩、三宝の恩を言います。
 私たちが仏道修行をできるのも、現世に父母が生んでくれたからです。そして国主が国を治めてくれるからこそ我が身を養うことができているのです。さらに仏法僧の三宝が在してこそ、成仏のための仏道修行をすることができるのです。また救済すべき一切衆生がいて、迫害を加える悪人がいてこそ、より多くの功徳を積むことができるのです。
 仏道修行をする者はこの四恩に報いていくことが大切ですが、特に大聖人は、
「然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」(同 二六八n)
と、四恩の中でも三宝の恩を重んじられ、私たちはこの三宝の恩を報じていかなければならないと仰せられています。その上で、先の松葉ケ谷の夜討ちも伊東の配流も、この四恩報謝のためであった故に、第一の喜びであるとされているのです。
 次に「歎き」とは、
「我一人此の国に生まれて多くの人をして一生の業を造らしむる事を歎く」(同 二六九n)
と仰せのように、法華経の行者である大聖人に対して悪口し、罵詈し、暴力を加え、流罪に処した人々が、堕地獄の重業を造ってしまったことに対する大慈大悲の歎きです。
 このように法華身読の法悦と謗法の人々への慈悲の歎きを懐かれつつも、大聖人は配流地での生活を穏やかに過ごされたのでした。
『教機時国抄』
 さて、この時期に著わされた『教機時国抄』では、末法に適った仏法を明かすための五つの判定基準を明かされています。
 この判定基準とは、教・機・時・国・教法流布の前後の五つであり、これを宗教の五綱、または五綱教判とも言います。
 まず教とは、一切の経典にはその教えに浅深勝劣があり、最も勝れた教えを判ずるには、教判の正邪如何に存します。五重の相対、五重三段、三重秘伝等の法門がこれに当たります。
 次に機とは仏法を信受する人々の機根についての判釈であり、これには本已有善・本未有善の別があり、それぞれに適した法として種熟脱の三益の法門があります。
 三に時とは、釈尊滅後に正法・像法・末法の三つの時代があり、今は釈尊の仏法が力を失った末法であり、この時代には末法の仏が出現し人々を救済する時代であることなどを明かし、四に国とはインドには小乗の国、大乗の国、大小兼学の国などがありますが、日本はそのいずれでもなく法華経有縁の国であることと知る教判です。
 教法流布の前後とは、例えば先に外道の教えが広まっていれば小乗をもって破し、小乗であれば大乗をもってというように、流布の順次を知るべきであるとする教判です。
 伊豆配流の時点では、この五綱教判の結論とも言うべき内容は、まだ明確には示されていません。
 簡略に要点を述べれば、末法には久遠元初の本仏が出現し、寿量文底秘沈の大法である下種本因の妙法を三大秘法として建立し、人々に広めることを明らかにする教判と言えます。特に、末法の本尊とは南無妙法蓮華経の本尊(究竟は本門戒壇の大御本尊)であり、この本門の本尊を信じて受持し、修行していくことが末法の信心修行なのです。

一体仏について

 ここで伊豆配流中に入手された釈尊立像仏について考えてみましょう。
 この立像は一体仏と言って、大聖人が終生御所持になり、入滅に際しては自らの墓所の傍らに立て置くよう遺言された仏像でした。
 ただし、この五綱教判の内容から考えれば、大聖人が釈尊像を所持されたからといって、今の私たちが釈尊像を本尊とすることは誤りであることが判ります。
 そもそも脇士を伴わない釈迦立像仏は修行中の仏を意味します。たとえ脇士がいたとしても、三十二相八十種好を備えた姿は垂迹の仏であることを示し、熟脱の仏を意味するのであり、下種の時代である末法の本尊としては不適格となります。
 では、なぜ大聖人が一体仏を所持されたかというと、まず理由の一点目は弘通の草創期に当たって、ひとまず釈迦仏を借りて肝心の妙法を示そうとされたこと。
 二点目には、当時は浄土や真言の教えが広く普及し、阿弥陀仏や大日如来などが本尊として尊崇されていたことから、権実相対の立場よりまずは釈尊に立ち帰り、その本意を尋ねるべきとを示すため。
 そして三点目には、末法弘通の大導師である大聖人の観見によれば、一体仏がそのまま久遠元初の本仏と映られたこと。
 以上、三つの理由が挙げられるのです。つまり、一体仏所持はあくまでも一時的なもの、大聖人の御身に限ることであって、広く衆生救済の本尊とするためではありません。
 末法適時の本尊は、大聖人の御図顕された南無妙法蓬華経の御本尊の他にはないのです。私たちはこのことをしっかりと学び、御本尊様への確信のもと修行に励んでいくことが大切です。