平成30年12月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 9

松葉ケ谷の法難・伊豆配流 一

 前回は、日蓮大聖人第一回目の国主諌暁である『立正安国論』の提出と、その内容について学びました。
 かつて、建長五(一二五三)年四月二十八日の初転法輪の際、諸宗を否定するその内容に聴聞衆は動揺し、中でも安房国東条郷(現在の千葉県鴨川市)の地頭・東条景信は怒りから大聖人に危害を加えようとしました。
 また、それ以後の鎌倉での弘教に当たっては、辻説法の場をたびたび追われるなど、既に折伏を行ずることによる様々な障魔が現われていました。
 しかし、『立正安国論』の提出によって、後に、
「此の法門を申すに、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり」(御書 五三九n)
と示される如く、これまでとは比較にならない、まさに大聖人の身命に及ぶ大難・王難が起こり始めるのです。
 ここに「大事の難四度」と示される大きな法難の初めとして、『立正安国論』提出から四十二日後に起こったのが、松葉ケ谷の法難でした。

松葉ケ谷の法難

 大聖人から諌暁を受けた幕府でしたが、『下山御消息』に、
「御尋ねもなく御用ひもなかりしかば」(同 一一五〇n)
と述べられているように、『立正安国論』の内容に関する大聖人への照会などの表立った反応はありませんでした。
 あるいは『破良観等御書』に、
「人の主となる人はさすが戒力といゐ、福田と申し、子細あるべきかとをもひて、左右なく失にもなされざりしかば」(同一〇七九n)
と示されるように、大聖人に帰依する人々も増えており、何かしら力のある僧侶なのではと、幕府の中にも安易な判断を控える動きがあったのかも知れません。
 しかし、破折の対象となった禅・念仏・律宗等の僧侶・信徒たちは裏で策謀を巡らし、権力者に働きかけていました。
 そしてついに、文応元(一二六〇)年八月二十七日の夜半、大聖人が住居とされていた松葉ケ谷の草庵を襲撃するに至ったのです。
 その理由について、『下山御消息』には、
「国主の御用ひなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん。念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したるとぞ聞こへし」(同 一一五〇n)
と示されています。
 「さるべき人々」とは幕府の権力者を意味しており、幕府が用いない僧侶であれば、危害を加えても罪科になるまいとの思惑のもと、高僧等が信者を扇動したのです。
 
謗法の徒による夜襲は激しく

「きりものどもよりあひて、まちうど等をかたらひて、数万人の者をもって、夜中にをしよせ失はんとせし」(同一〇七九n)
「夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせし」(同一一五〇n)
とあるように、勢いにまかせて大聖人を殺害しようとまで画策していました。
 当時の権力者・為政者が大聖人を亡き者にしようとして起こした松葉ケ谷の夜襲、これはまさに、法華経の『勧持品第十三』に説かれる、釈尊滅後の末法時代に法華経の行者を迫害する「三類の強敵」の出現に他なりません。
 このように多くの暴徒の襲来ではありましたが、『破良観等御書』に、
「十羅殺の御計らひにてやありけん、日蓮其の難を脱れし」(同一〇七九n)
とあるように、諸天善神の御計らいと弟子たちの懸命な護りによって、大聖人はその身に傷一つ負うことなく難を逃れられました。
 なお、松葉ケ谷に程近い現在の神奈川逗子市に伝わる「お猿畠」という所には、松葉ケ谷夜襲の際、白猿が現われて大聖人が岩窟へ逃れる手助けをしたとの伝説があります。
 御書中にそのよう描写はありませんが、大聖人が難を逃れたことがあまりに不思議な出来事であるために、諸天善神が白猿に姿を変えて守護したとする説が流布したのかも知れません。

下総弘教

 松葉ケ谷の法難は、罪のない一人の僧侶を多勢をもって襲撃するという事件でしたが、
「而れども心を合はせたる事なれば、寄せたる者科なくて、大事の政道を破る」(同 一一五〇n)
と仰せの如く、権力者が同意の上であったことから、草庵襲撃者に対する当時の式目(法令)に照らした処分も行われない有り様でした。
 このような状況にあって鎌倉に留まっていては、再び襲撃される可能性が大きく、大聖人は富木常忍の請いもあり、一時、下総若宮(現在の千葉県市川市)の富木邸に身を寄せられました。しかし、ただ幕府・念仏者から隠れて過ごされていたわけではなく、富木邸で説法をされるなど妙法流布の手を緩めることはありませんでした。
 こうして下総滞在中に、太田乗明、曽谷教信、秋元太郎兵衛などの人々を入信へと導かれたのです。

伊豆配流

 大聖人は、三類の強敵が盛んに出現し始めた今、法華経の行者として一層の折伏弘教をなすべき時であるとお考えになり、翌弘長元(一二六一)年の春、危険を顧みず再び鎌倉へ戻られました。
 この知らせを聞いた幕府は、直後の五月十二日に大聖人を捕らえさせ、取り調べもないまま伊豆国伊東への配流が沙汰されました。
 その罪状は『下山御消息』に、「日蓮が生きたる不思議なりとて伊豆国へ流されぬ」(同n)と示されるように、殺害されなかったのが不届きであるとの、理解し難い理由でした。
 これら松葉ケ谷の法難と伊豆配流の背景について、『妙法比丘尼御返事』には、
「長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ」(同一二六三n)
と仰せられ、『破良観等御書』には、
「両国の吏心をあはせたる事なれば、殺されぬをとがにして伊豆国へながされぬ」(同一〇七九n)
と御教示されています。
 つまり草庵襲撃の黒幕は、当時の執権・北条長時の父・北条重時(極楽寺重時)だったのです。
 重時は、既に出家の身でしたが、依然として大きな権力を握っており、大聖人を目の敵にする蘭蹊道隆や忍性良観等と結託し、個人的な恨みも重なった末の策謀でした。
「両国の吏」とは、執権と執権の補佐役である連署のことで、当時の連署は重時の弟・北条政村です。仮にも幕府の最高権力者である執権・連署の二人が、法に依らず自分たちの親族の心を推し量り、大聖人を伊豆流罪に処したのです。

川 奈

 古来から伊豆は流刑地とされ、源頼朝の流刑先としても知られています。平安時代までは伊豆諸島との混同から遠流先とされ、鎌倉時代以降も地理的な要因による隔離・管理の便からか、多くの流人が送られていました。
 大聖人は、まるで幕府に弓引く罪人かのように押送され、伊豆国伊東の川奈の津に降ろされました。
 その時の様子を『船守弥三郎殿許御書』には、
「日蓮去ぬる五月十二日流罪の時、その津につきて候ひしに、いまだ名をもきゝをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ侯ひき」(同 二六一n)
と、仰せられています。
 身分の高い貴族や武家の出自でないとは言え、地名も知らされず、逗留すべき住居さえ伝えられずに小舟を降ろされ、一人難渋された様子が拝されます。
 なお、伊豆配流に当たっては、初め川奈の津と言っても、岸から離れた海上の岩の上に置き去りにされたとの伝承があります。しかし、御書には「その津」に着かれたとのみ記されています。
 次回も引き続き、伊豆配流とその後の御振る舞いについて学んでいきましょう。