平成30年10月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 7

『立正安国論』御述作背景

初めに


 前回は、大聖人が宗旨建立後、安房清澄寺を離れて、当時の政治経済の中心地であった鎌倉に向かい、名越の草庵を拠点に、本格的な折伏弘教を開始されたところを主に学びました。
 当時の鎌倉は、下剋上とも言うべき承久の乱後、公家政権の勢力は後退し、鎌倉幕府の武士による支配が東国中心から日本全国へと範囲を拡大していきました。その影響により、京の都から多くの人と文化が鎌倉の地に流入し、京都に代わる一大都市を形成していました。鎌倉の宗教界も幕府の権力者の庇護のもとに、禅宗や真言、念仏、律の諸宗の諸大寺院が次々と建立され、勢力を伸ばしている最中でした。

天変地異

 当時の世情は、鎌倉幕府の権力の勢いと鎌倉諸大寺の隆盛とは裏腹に、打ち続く飢饉や疫病で多数の死者が出、さらに追い打ちをかけるよう正嘉元(一二五七)年八月二十三日、鎌倉を大地震が襲い、壊滅的な被害を与えます。この大地震の様子について『吾妻鏡』には、
「戌の尅、大地震。音あり。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顛倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色育しと云々」と記されています。すなわち「午後八時頃(戌の刻とは、午後七時から九時までの間)、大地震が起こり、地響きが鳴った。この大地震によって、神社仏閣が一つとして無事であったものはなかった。山は崩れ、住居は倒壊し、土塀もすべて壊れ、所々で地面が裂け、水が涌き出した。中下馬橋の辺りでは、地割れしたところから炎が燃え上がった。色は青かった」と、まさに前代に類を見ない大災害をもたらした地震でした。大聖人もこの時、鎌倉名越の草庵にあって、この大地震の災害を目の当たりにされています。『安国論奧書』に、
「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戍亥の剋の大地震を見て之(立正安国論)を勘ふ」(御書四一九n)
とあり、さらに『顕立正意抄』の冒頭には、
「日蓮去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日、大地震を見て之を勘へ定めて書ける立正安国論」(同七四九n)
とあるように、頻発する災害の中でもこの正嘉元年八月二十三日の大地震が、後に『立正安国論』を御述作あそばされる直接的要因となった災害でした。
 その後、同二年八月には、大風雨があり、諸国の田園を損亡し、同三年早々からの大飢饉は、翌年まで続く大疫病をもたらしました。これらの災難は、万民を塗炭の苦に追いやり、その大半を死に至らせるほどのものだったのです。
 こうした状況に、幕府は諸宗の寺社に命じ、種々の祈祷をさせました。しかし、少しの効果もないどころか、かえって飢饉・疫病を増長させる結果となったのです。
 大聖人はこの時の様相を、『安国論御勘由来』に、
「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時、前代に超えたる大地振。同二年報戊午八月一日大風。同三年己未大飢饉。正元元年己未大疫病。同二年庚申四季に亘りて大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主右之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷有り。爾りと雖も一分の験も無く、還りて飢疫等を増長す」(同三六七n)
と記され、『立正安国論』の冒頭には、
「近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し」(同 二三四n)
と記されています。
 大聖人はまさにこのような五濁悪世の末法の様相を呈する現状を心から憂えると共に、まさにこの災厄、不幸の根源は邪宗教にある道理を深く洞察されていました。大聖人は、鎌倉市中の辻々に立たれて、民衆に向かって邪宗教の誤りを糺し、法華経を受持させるべく弘教も絶えず行われていましたが、このような打ち続く災害の中で、今こそ、鎌倉時代の封建社会にあって、絶対的権力を持っていた為政者を諫暁し、正法を受持させることがどうしても必要であると決意されました。当時、絶対的権力を有していたのは、鎌倉幕府の前執権・北条時頼です。諌暁とは、誤った宗教に帰依しているのを諌め正法に導くことで、つまり北条時頼への折伏を意味します。

一切経の閲覧

 国主諌暁を決意された大聖人は、再び一切経に目を通し、道理と文証をさらに具体的に明示しょうとして、いったん鎌倉を離れ、駿河国下方岩本(現在の静岡県富士市岩本)の実相寺の経蔵に入られました。
 当時、大聖人が一切経を閲覧された様子が次の御文でうかがえます。
『中興入道御消息』
「去ぬる正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其の故をうらなひしかども、なにのゆへ、いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに」(同一四三三n)
『安国論御勘由来』
「日蓮世間の体を見て粗一切経を勘ふるに、御祈請験無く還りて凶悪を増長するの由、道理文証之を得了んぬ」(同三六七n)
 以上の御文から拝されるように、世の中の災難の原因を明らかにするために、一切経をひもとき、その上から、道理と文証に基づいて国主を諌暁するべく『立正安国論』御述作の準備を着々となされました。

日興上人の入門

 大聖人が岩本の実相寺において、一切経を閲読されていた折、当時実相寺に近い蒲原の四十九院で修学中の、十三歳になる伯耆公は大聖人に給仕し、その立派な御姿に感動し、弟子となりました。この伯耆公こそ後の第二祖日興上人です。

終わりに

 今回は、『立正安国論』を御述作されるに至った背景を学びました。いよいよ次回は『立正安国論』を時の最高権力者である北条時頼に提出し、第一回の国主諌暁を敢行されるところを学びます。
 言うまでもなく『立正安国論』に示された破邪顕正の御精神こそ、あらゆる災害を止める唯一の方途です。
 御法主日如上人猊下は法華講連合会第四十八回総会の砌において、
「天変地夭をはじめ戦争、飢餓、人心の撹乱等、世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、ひとえに謗法の害毒にあり、その謗法を断たなければ真の平和も国士の安穏も訪れてこないのであります」(大白法 八一〇号)
と仰せです。私たちはこの御指南を体し、末法濁世の混乱した世の中を安穏な世にすべく、折伏に精進してまいりましょう。