平成20年11月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
 『立正安国論』正義顕揚の背景
 三、身延期 B
 熱原法難
 身延(山梨県身延町)に入られた大聖人は、弟子・檀越を指揮してますます布教を進められます。中でも日興上人の活躍はめざましいものでした.。
 日興上人は、幼少の頃から漢学や仏法を学び初等教育を修めた、静岡県富士川町の四十九院の住僧でした。したがって富士下方地方の案内に明るく、四十九院や、実相寺、滝泉寺といった寺院の僧侶・檀越を次々に折伏し、教えを弘めていったのです。
 特に天台宗・滝泉寺では、日秀師・日禅師・頼円といった住僧と、それに付き従う檀越が次々に日興上人の弟子となり、折伏の大潮流が起こりました。
 これに危機感を募らせたのが滝泉寺の院主代(住職の代理)の行智です。行智は、熱原の領主・北条家の一族か、権力者の一族であったのでしょうが、別当坊(住職の住坊)に自由に立ち入り、公然と肉食酒宴の乱行を行うなどし、寺内における権力も絶大なものがありました。行智が滝泉寺の住僧・檀越の法華信仰への改宗を看過するはずもありません。
 弘安二(一二七九)年春頃からは、院主代行智と、日秀師・日弁師らの軋轢が決定的となり、ついに熱原法難が惹起するのです。
 行智は政治権力と結託し、日興上人の弟子となった僧侶を寺内から追放し、信徒には無実の罪を着せて危害を加えるなど、謀略や横暴の限りを尽くします。
 その結果、日禅師・日弁師は住坊を奪われながらも何とか寺内に留まり、また頼円は行智に寝返ってしまいます。
 さらに、信徒にあっては、弘安二年四月八日、四郎に傷を負わせ、同年八月、弥四郎の首を切るなどして恫喝を加えてきました。
 また九月二十一日、日秀師が農民信徒多数を率いて別当の所領から稲を刈り取って横領したと騙って苅田狼藉の罪を着せて、農民信徒二十名を逮捕して鎌倉に移送させます。苅田狼藉は非常に重い罪でしたが、これらの罪状は農民信徒に法華経信仰を捨てさせるため、行智と平左衛門尉が結託してでっちあげたものでした。
 逮捕されて鎌倉に移送された農民信徒は、平左衛門尉の屋敷で詮議を受けます。しかし、その詮議は苅田狼藉について調べるものではなく、法華経信仰を捨てるように迫る、凄惨な拷問でした。
 大聖人は日興上人および日秀師・日弁師を鎌倉に遣わし、事態の対応に当たらせました。また、理非曲直を明らかにするため、『滝泉寺申状』を認め、日秀師・日弁師の連名をもって問注所に提出させるなど、必死に手を尽くします。しかし、農民信徒の首謀者と見なされた神四郎・弥五郎・弥六郎は、弘安二年十月十五日、ついに斬首されたのです。この時、信徒は誰一人として圧力に屈することなく、最後まで大聖人への帰依を貫き通しました。

 出世の本懐成就
 大聖人御一期の御化導においては様々大難がありましたが、熱原法難以前の難は、すべて大聖人御自身に対するものでした。しかし、この熱原法難は、弟子・信徒に対するものであり、しかも、身命を賭して信仰を貫いた信徒は入信間もなく、文字も読めぬ一文不知の農民でした。
 ここに大聖人は、本門弘通の大導師たるべき日興上人の化導により、師弟相対して不自惜身命の信仰を実践した実相を深く鑑みられました。そして、大聖人は熱原法難の最中、弘安二年十月十二日に本門戒壇の大御本尊を御図顕されたのです。
 本門戒壇の大御本尊は、大聖人が御図顕された御本尊のうち、ただ一体だけ堅牢な楠の板に顕されております。これは本門戒壇の大御本尊を末法万年に伝承するための特別な措置であり、本門戒壇の大御本尊こそ、末法万年の一切衆生が即身成仏するための大法であり、大聖人の御魂魄そのものなのです。この大御本尊を御図顕して世に留めることが、大聖人出世の本懐だったのであります。

 御付嘱と常陸の湯へのご出発
 仏の悟りとは四苦を超克したものでありますが、法華経を含め種々の経典には、仏にも少病少悩があることが説かれています。
 大聖人も、佐渡赦免以後、お腹をこわすなどされ、弘安四年五月の『八幡宮造営事』において、「此の七八年が間年々に衰病をこり候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年は正月より其の気分出来して、既に一期をわりになりぬべし」(御書1556n)
と弘安四年に至る七・八年は体力が衰える病に見舞われ、弘安四年は、正月から下痢を再発されていたと思われます。そして、「一期をわりになりぬべし」と、大聖人御自身が死期を覚悟されるほどのご病状になっていたのです。
 大聖人は、御自身の滅後のために、唯授一人付法の弟子を、他の門弟に抜きん出た日興上人とお定めになります。」
 弘安五年九月、日興上人に本門戒壇の大御本尊を御付嘱されると共に、唯授一人の血脈相承をあそばされました。そして、その証として『日蓮一期弘法付嘱書』に、「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(同一六七五n)
と認めて日興上人に授与されました。
 その後大聖人は湯冶のために身延を離れ、「常陸の湯」(福島県いわき市)に向かわれます。途中、弘安五年九月八日に武州池上(東京都大田区)の地頭、池上宗仲の館に立ち寄られますが、体力の衰えにより、しばらくこの地に逗留されました。そしてこの池上の地で御入滅を迎えることとなったのです。

 『立正安国論』の御講義
 池上に大聖人が御逗留されていることを聞いた弟子・檀越は、最後に大聖人の御姿を拝したいと願い、続々と池上に集まりました。
 そして、大聖人は、集まった弟子・檀越を前に病を押して『立正安国論』の御講義をなされました。
 大聖人御一期における忍難弘通の御化導は、すべて立正安国をめざしての実践であります。臨終を前に大聖人が『立正安国論』を御講義されたことも、再度その意義を発揚せんとのお考えからであると拝せられます。

 御入滅
 弘安五年十月八日、大聖人は、滅後の教団運営の形態をお考え遊ばされ、本弟子六人を選定し、さらに十月十三日早暁には『身延山付嘱書』を認めて、大聖人正統の後継者を日興上人であると門下に宣言され、身延山久遠寺の別当に任ぜられたのです。
 同日辰の刻(午前八時頃)弟子檀越一同が唱題する中、大聖人は安祥として御入滅されました。その時大地が振動し、時ならぬ桜の花が一斉に咲いたと伝えられます。この瑞相は法界全体が大聖人の御入滅を惜しむと共に、大聖人の御魂が三世永遠に本門戒壇の大御本尊として常住し、末法万年の衆生を利益することを祝うものであったのです。
 明年は、大聖人が大慈大悲をもって『立正安国論』を著し、一閻浮提広宣流布に向かって折伏弘通を開始されてから七百五十年という重大な節目を迎えます。私たちも真剣に折伏弘通を実践し、大聖人の御報恩にお供えしてまいりましょう。