平成20年10月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
 『立正安国論』正義顕揚の背景
 三、身延期A
  鎌倉から身延へ
 第三の諌暁(かんぎょう)も幕府の用いるところとはなりませんでした。
 大聖人は、古(いにしえ)の賢人の言に従い、鎌倉を去ることを決心されました。そして、日興上人の勧めによって、その弘教(ぐきょう)地でもあった身延の沢を隠栖(いんせい)の地とされたのです。
 鎌倉の多くの人々と別れを惜しんだ大聖人の一行は、文永十一(一二七四)年五月十二日に鎌倉を出発し、途中、酒匂(神奈川県小田原市)、竹の下(静岡県駿東郡小山町)、車返し(静岡県沼津市)、大宮(静岡県富士宮市)、南部(山梨県南巨摩郡)を通って、五月十七日に身延へと到着し、身延の沢での生活がはじまりました。

 身延の草庵と『法華取要抄』の御述作
 お住まいは、草木がうっそうと生い茂り、四方を山や川に囲まれた狭い所に、質素な草庵での心細いものでした。また、食料などの物資に乏しく、雪深く寒さも厳しいたいへんな生活でした。
 こうして身延に入られた大聖人のもとに、最初に御供養の品々を携えて参詣したのは、南条時光(当時十六歳)でした。南条時光は、この後も、自身の生活が苦しい時でも欠かさずに、大聖人のもとへ種々の御供養をされ、身延の生活を支(ささ)えられたのです。
 初めは静かな草庵での生活も、次第に門弟も増え、ご信徒の参詣も盛んになり、賑やかなものとなっていきます。
 身延に到着された大聖人は、早速、『法華取要抄』を御述作され、文底下種の南無妙法蓮華経、即ち三大秘法をもって、末法流布の大法とすることを明示されました。


 蒙古襲来と『撰時抄』の御述作
 さて、入山より五カ月後の十月五日には、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)の予言の通り、蒙古軍が壱岐対馬(いきつしま)を攻めてきました(文永の役)。この戦の悲惨な状況を聞かれた大聖人は、直ちに諸宗の悪法を対治すべきであると喝破され、翌建治元(一二七五)年六月十日に『撰時抄』を御述作されました。
 『撰時抄』では、仏法の弘まる「時」を論じ、末法の闘諍堅固(とうじょうけんご)の今には、上行菩薩が出現して、南無妙法蓮華経の大白法を広宣流布することを明らかにされています。この上行菩薩とは末法の仏であり、実は大聖人御自身のことであることを暗示されているのです。

 道善房の死去と『報恩抄』の御述作
 建治二年三月十六日、大聖人のもとに道善房死去の悲報が届きました。
 道善房は、内心は妙法に帰伏しつつも、ついには念仏を捨てきれなかったのですが、大聖人にとっては幼少の頃に学問の手ほどきを受けた出家得度の師匠でありました。
 大聖人は、深い悲しみの中で『報恩抄』を認められ、日向(にこう)に託して清澄寺の浄顕房・義浄房に送り、墓前と嵩(かさ)が森の頂にて読み上げるように指示されました。
 『報恩抄』では、恩を報ずることの大切さを説き、例え父母や師の心に背くことになっても、真実の仏法を習い究めることこそ真の報恩であると示されています。そして、経文によって勝劣を判ずれば法華経こそが最勝であり、その肝要は妙法蓮華経であることを明らかにされ、
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(同 一〇三六n)
と仰せられるように、大聖人の慈悲広大なる故に、三大秘法の南無妙法蓮華経は末法万年未来まで、一切衆生を救うことを明らかにされています。

 法華経の御講義
 さて、令法久住(りょうぼうくじゅう)と広宣流布の基礎のためには、門弟の育成が不可欠です。そのため、大聖人は、日常の信心修行の督励はもちろんのこと、一方では法華経の講義をされました。
 この講義には、日興上人や、建治二年に入門した日目(にちもく)上人など、少ない時は四十人、多い時で六十人もの門弟が聴講しました。
 この法華経の講義の真髄を会得した日興上人は、その深旨を『就註法華経口伝(御義口伝)』として的確に筆録されました。
 この講義は建治三年の暮れまでに完了し、続いて弘安元(一二七八)年三月十九日より、新たに講義を始められました。

 門下の動静
 大聖人身延入山の後、各地の信徒が大聖人のもとへ訪れました。
 中でも阿仏房と国府入道が、幾多の困難を乗り越えて、はるばる佐渡の国より参詣されました。
 また、鎌倉では、竜象という僧侶と、門下の三位日行が問答をし、たちまち竜象を屈服せしめました(桑ケ谷問答)。これを機として、四条金吾は主君の江馬氏より法華信仰を捨てるよう責められ、池上宗仲は父親より勘当されました。しかし、
 「冬は必ず春となる」(同 八三二n)
の御金言のように、後に四条金吾は許されて、より一層主君の信頼を得て、また池上宗仲と宗長の兄弟は力を合わせて、兄の勘当を解いたばかりか、父親を折伏し、ついに入信せしめました。
 富士地方では、日興上人が南条時光の外護(げご)を受けて弘教に励まれました。


 出世の本懐成就を期されて
 さて、この時期における大聖人の御化導(ごけどう)には、
一、佐渡での法華身読(しんどく)を終えられて、いよいよ三大秘法の法門を開示されたこと
二、末法万年の衆生救済のために、門弟の育成に力を注(そそ)がれたこと
などの、末法の御本仏としての尊い御振る舞いが拝されます。
 また、日興上人の富士地方の弘教は、後に本門戒壇の大御本尊建立の外縁(がいえん)となる熱原法難の素因となったのです。
 私たちは、大聖人と日興上人の尊い師弟の絆、そして、その教化を受けて弘教に励むご信徒たちの姿を鑑として、自らも本年度の誓願完遂のために、しっかりと折伏に励んでいきましょう。