平成20年8月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
 『立正安国論』正義顕揚の背景
 三、身延期@

 第三の国諌(こっかん)
 執権(しっけん)北条時宗の発した佐渡流罪の赦免(しゃめん)状を受けとられた大聖人は、文永十一(一二七四)年三月十四日、無事佐渡の真浦(まうら)の津から出帆(しゅっぱん)されました。越後(えちご)から鎌倉までの途中、「日蓮房赦免」の報(しら)せを聞きつけた越後や信濃(しなの)の念仏者や持斎・真言の法師たちは大聖人の御命を狙って信濃の善光寺に待ち伏せていましたが、越後の国府より数多くの兵士の警固もあり、何事もなく三月二十六日、鎌倉に入られました。
 間もなく鎌倉幕府より出頭の命令が到来し、四月八日、大聖人は、幕府の館において、平左衛門尉頼綱(よりつな)をはじめとする幕府の要人と対面されました。いわゆる殿中(でんちゅう)問答です。
 『種々御振舞御書』に、
 「四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さきにはにるべくもなく威儀を和(やわ)らげてたゞしくする云云」(御書 一〇六七n)
とあるように、竜の口法難の時には居丈高(いたけだか)だった平左衛門尉が、態度を和らげて礼儀正しく大聖人を迎えたのです。そして平左衛門尉は、爾前経(にぜんぎょう)での成仏の有無について質問し、その他同席した要人たちは、それぞれ、念仏・真言・禅等の信仰について、質問してきました。大聖人は、それぞれの質問について、一つひとつ経文を引いて丁寧に答えられ、法華経以外の爾前の諸経では成仏はできないことを説かれました。
 さらに大聖人は、
 「念仏は無間地獄へ堕(お)ちる業であり、禅宗は天魔の仕業(しわざ)であることは疑いない。ことに真言宗が弘まることが、この国の大なる災難を引きおこす原因であるから、蒙古国を降伏させる祈祷を真言師に申しつけてはならない。もし真言僧たちに祈祷を申しつけられるならば、ますます早急にこの国が亡びるであろう」(同 八六七n・趣意)
と強く述べられました。
 そこで平左衛門尉は、幕府の最も関心事である蒙古襲来(もうこしゅうらい)の時期を質問したのです。


 これに対し、大聖人は「経文にはいつとは書いていないが、天変地夭(ちよう)の様子から見て、天の怒りが少なくない。蒙古が今年中に襲ってくることは間違いない」と、はっきりと言われたのです。これが、大聖人の三度目の高名(こうみょう)に当たります。
 この三度の高名とは、大聖人の三度にわたる国主諌暁(かんぎょう)をいいます。
 一度目は、文応元年七月十六日に、宿屋(やどや)入道を介(かい)し、『立正安国論』をもって幕府の最高実力者である前執権・最明寺入道時頼(ときより)を諌暁したこと。
 二度目は、文永八年九月十二日、竜の口法難の時、大聖人を捕らえにきた平左衛門尉に向かって、
 「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり」(同 八六七n)
と諌められたこと。
 三度目は、先に述べた平左衛門尉との殿中問答です。『高橋入道殿御返事』に、
 「此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候ひき」(同 八八九n)
と仰せのように、大慈大悲の上から一切衆生救済のため、また日本国を助けるために、佐渡御配流から戻られた後、今一度、平左衛門尉をはじめとする幕府の要人たちに諌暁なされたものでした。
 しかし、この三度目の国諌も用いられることはありませんでした。
 幕府は、今年中に蒙古が来襲してくることを予言された大聖人の言葉のみ恐れて、土地や堂舎を寄進することを条件に、他宗の僧と同じく国家の安泰を祈祷してほしいと願ったのです。
 大聖人は、
 「世間法とは、国王大臣より所領をたまはり官位(かんい)をたまふ共、夫(それ)には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染(ふせん)世間法とは云ふなり」(同 一八四七n)
との御精神から、幕府の要請を一蹴(いっしゅう)されました。
 このことは、大聖人が、世間的な名声や権力による庇護を望まれたのではなく、ただ人々の不幸の原因である邪教を対治(たいじ)し、正法をもって平和な国土の建設を願われていたからに他なりません。

 真言亡国の相
 また当時、折からの干ばつによって井戸は涸(か)れ、作物も全く実(みの)らず、今やなすべきもない状態に陥(おちい)っていたことから、幕府は阿弥陀堂の別当・加賀法印に祈雨(きう)を命じました。四月十日より真言の修法が行われると、翌日の十一日には雨が静かに降ってきたのです。このため執権の時宗(ときむね)は多大な恩賞を加賀法印に贈り、鎌倉中の上下万人も感嘆し、真言祈祷の誤りを説く大聖人を嘲笑(ちょうしょう)しました。
 大聖人は、
 「しばしまて(中略)子細(しさい)ぞあらんずらん」(同 一〇六八n)
と仰せられると、翌日の十二日には雨もやみ、突如(とつじょ)大風が吹き荒れ、鎌倉の大小の舎宅・堂塔・古木・御所等が損傷し、人々も牛馬も多く吹き殺される事態になりました。こうして真言の祈りは正しいものでないことが現証として露顕(ろけん)したのです。
 また大聖人は『八幡宮造営事』に、
 「其の故は去ぬる文永十一年四月十二日に、大風ふきて其の年他国よりおそひ来たるべき前相なり。風は是(これ)天地の使ひなり。まつり事あらければ風あらしと申すは是なり」(同 一五五七n)
と、この悪風は政(まつりごと)の乱れの象徴(しょうちょう)であり、また蒙古襲来の前兆(ぜんちょう)であると仰せられています。
 こうして第三の国諌の時に仰せられた、
「大蒙古を調伏(ちょうぶく)せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべし(中略)天の御気色いかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき」(同 八六七n)
との大聖人の予言は的中したのです。この年文永十一年十月、蒙古の大軍は、壱岐(いき)、対馬(つしま)に攻め入り、ありとあらゆる暴虐(ぼうぎゃく)を尽くし、さらにその大軍は北九州の沿岸へと押し寄せてきたのです。
 いわゆる「文永の役(えき)」という未曽有(みぞう)の大事件が起きたのです。