平成20年5月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
 『立正安国論』正義顕揚の背景
二、佐渡期
 依智から佐渡への道
 文永八(一二七一)年九月十二日夜半における竜の口法難の後、大聖人は相模国依智(現在の神奈川県厚木市)にある本間六郎左衛門の屋敷に逗留されました。『種々御振舞御書』によれば、本間邸に着いた早々、鎌倉からの使者が、
 「此の人はとがなき人なり。今しばらくありてゆるさせ給ふべし。あやまちしては後悔あるべし」(御書 一〇六一n)
との執権北条時宗の書状を携えて来ました。その後、大聖人は屋敷の庭に出られて自我偈を読まれ、月天を諌暁されましたが、その際に、明星が庭まで降りて梅の枝にかかるという不思議な出来事がありました。
 その後、十月十日、佐渡へ向かうために依智を出発され、二十一日に越後の寺泊(現在の新潟県長岡市)に、二十八日に佐渡松ケ崎の港に着き、十一月一日に配所である塚原三昧堂に入られました。

 塚原の生活
 さて、この塚原の場所について、長い間、新穂大野と考えられてきましたが、近年の学術研究によって佐渡市目黒町鳥居畑と特定され、立正安国論正義顕揚七百五十年記念局によって塚原跡碑が建立されています。
 この地での生活は、
「塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり」(同 一〇六二n)
と御書にあるように、年中強い風に吹きさらされ、しかも島民は念仏信者であり、常に身の危険にさらされていたのです。そのような中、大聖人の傍らには常に日興上人がおり、お給仕を尽くされました。

 塚原問答と二月騒動
 念仏の信仰者たちは、阿弥陀仏の敵である日蓮を生かして帰すまじと、領主である本間六郎左衛門のもとへ押し寄せました。これに対し、六郎左衛門は、法門によって責めよと念仏者らに言い渡したのです。
 こうして翌文永九年一月十六日、塚原において、本間六郎左衛門立ち会いのもと、大聖人と佐渡及び近国の諸宗の僧たちが問答をすることとなったのです。いざ問答に入ると、諸宗の僧たちの問難は稚拙であり、大聖人は一言二言でたちまちに承伏せしめる有り様でした。
 こうして問答が終わり、人々が帰り始めたとき、大聖人は本間六郎左衛門に「いつ鎌倉へ行くのか。鎌倉で戦が起きようというのに、遅れては恥ではないか」と言いました。
 六郎左衛門らはいぶかしく思っていましたが、二月十八日に鎌倉と京で戦(二月騒動:北条氏一門の同士討ち)が起きたとの連絡を受け、大いに驚き、念仏信仰を捨てることを誓って、すぐさま鎌倉へと向かったのです。
 この予言的中により、本間六郎左衛門ばかりでなく、島民も大聖人に畏敬の念を抱くようになりました。

 信徒の動向
 さて、このころの門下の状況は、竜の口法難以後、日朗ら五人が土牢に閉じ込められるなど、弟子檀那らに強い迫害が加えられました。その結果、退転する者もおりましたが、そのような中、四条金吾や日妙聖人は、鎌倉から佐渡まで山海を超えて大聖人を訪れています。
 佐渡においても、念仏者であった阿仏房夫妻や国府入道らが入信、同じく佐渡に流されていた最蓮房が入門し、徐々に御題目の声が聞こえるようになったのです。

 予言的中と御赦免
 文永九年夏、大聖人は塚原から一谷へと居を移されました。
 文永十一年に入ると、再び蒙古の使者が日本へ到来し、いよいよ『立正安国論』に予言された他国侵逼難が現実味を帯びてきました。
 執権北条時宗は、二月十四日に大聖人の赦免状を発し、この赦免状は三月八日に佐渡に到着、十三日に大聖人一行は一谷を出発して鎌倉へと向かわれたのです。
 この赦免に先立ち、大聖人のもとに頭の白い烏が訪れ、赦免となることを知らせました。
 佐渡を去る大聖人は、二年半の苦しい暮らしの中、外護をしてくれた阿仏房夫妻ら、在島の信徒らを思い、後ろ髪を引かれる思いで船に乗られたと推察されます。

 佐渡での御著述と正義顕揚の意義
 大聖人は、佐渡滞在中に五十編を超える多くの御書を著されています。
 特に、極寒の塚原三昧堂において著された『開目抄』では、衆生の帰依すべき主師親の三徳について諄々と説かれ、その結論として、
 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(同 五七七n)
と、日蓮大聖人御自身が主師親三徳兼備の仏となることを示されたのです。
 また文永九年四月二十五日に一谷で著された『観心本尊抄』では、釈尊滅後五五百歳の末法において、結要付嘱を受けた上行菩薩が出現し、寿量文底下種の本尊を建立されることを明かされています。
 この二書をあわせて拝すれば、大聖人こそ、結要付嘱の妙法を受けて末法に出現し、下種の本仏の御立場より、その妙法を御本尊として御建立される方であることが明らかとなるのです。
 したがって、この佐渡期の御振る舞いには、
一、宗旨建立以来、法華経の行者として忍難弘通に励まれ、法華経を身で読まれてきたことの締めくくりであること
二、竜の口法難の発迹顕本によって、久遠元初の自受用身、即ち末法の下種本仏として、一切衆生の帰依すべき妙法の本尊を顕わされたこと

の二つの意義が拝されるのです。
 しかし、大聖人の本懐たる三大秘法の正式な明示と、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊の御建立は、次の身延期を待たねばなりません。
 私たちは、大聖人の佐渡での厳しい生活に思いを馳せ、またその大聖人を支えた日興上人、阿仏房らの尊い姿を拝し、自らの信心の甘えを捨て、唱題・折伏に励んでいきましょう。