平成20年3月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
 『立正安国論』正義顕揚の背景
一、鎌倉期 下

 祈雨の対決
 松葉ケ谷法難・伊豆流罪等の法難も、大聖人を亡き者にしようと画策する鎌倉諸大寺の僧侶が陰に陽に働きかけて行われたものでしたが、難を退け、悠揚迫らざる大聖人の御姿に、諸宗の僧侶は震撼し、敵意をつのらせていきました。
 また蒙古襲来の危機が迫る中、さらに旱魃によって民衆の不安や動揺はピークに達していました。
 文永八(一二七一)年六月、極楽寺良観は幕府から雨乞いの祈祷を命じられます。世に生き仏としてあがめられる良観が雨乞いを行うとあって、鎌倉市中では、いやがおうにも期待が高まっていきました。大聖人はこれを、世に仏法の正邪を知らしめる絶好の機会と捉え、良観に勝負を申し入れます。
 勝負の内容が『頼基陳状』に記されていますが、要約すれば次のような内容です。
 「良観が雨乞いを行って、七日の内に雨が降れば良観が行っている念仏などが正しいということであり、大聖人が良観の弟子となる。しかし、雨が降らなければ、良観が間違っているということになるから、良観は已後、一向に法華経を受持し、大聖人の弟子となれ」(御書 一一三一n・要旨)
 この大聖人の申し出に対し、良観はよほど自信があったらしく、泣いて喜んだと言います。
 ところが、良観の祈雨に、全く雨は降りません。途中で多宝寺の僧侶数百人が加勢して期限を延長し、二十一日間祈り続けましたが、結局、露ほどの雨も降らなかったのです。
 この結果を受け、大聖人は、良観の元に使いを遣わし「潔く弟子になれ」と告げましたが、良観が大聖人の弟子になることはなく、逆に自分の権威が地に落ちたことから、大聖人を逆恨みし、憎悪の念をつのらせたのでした。


 第二の国諌
 良観は雨乞いが失敗し、恥をかかされた恨みから、行敏という僧侶を使って、大聖人に難問状を呈し、法論を挑んできました。しかし、この法論は私的なものであり、大聖人を陥れるための罠だったのです。
 そのことを見抜かれた大聖人は、行敏の私的法論の要求には応じず、むしろ正邪を決すべき公場対決の絶好の機会として、行敏に上奏を経るよう、書状をもって対応されました。
 思惑が外れた良観は業を煮やし、行敏の名をもって、幕府の問注所に、大聖人を謗ずる訴状を提出したのです。訴状には、大聖人の門下が謀反を企てる危険な集団であるとの事実無根の悪口讒言が多分に含まれていました。
 良観のなりふり構わぬ悪逆非道の仕打ちを受ける中、大聖人は『行敏訴状御会通』において、僣聖増上慢たる良観の本性を鋭く指摘され、御自身の潔白を主張されるなど、大聖人と良観、さらには幕府の間で、緊迫したやりとりがなされたのです。
 良観と共謀した平左衛門尉頼綱は、大聖人に危害を加えようとします。平左衛門頼綱は侍所の所司という役で、北条得宗家に仕える武士の中でも最高位にあり、幕府の評定にも加わっていました。
 文永八年九月十日、平左衛門は大聖人を評定所に召還しました。評定では、大聖人が日本国の滅亡を祈る呪いの法師であるとして詮議されましたが、大聖人は仏法の正義の上からこれに反論し、自らが未萌を知る聖人であると告げました。しかし、大聖人の訴えが聞き入れられることはありませんでした。
 この評定の二日後の文永八年九月十二日、大聖人は平左衛門に対し、『立正安国論』を送られました。この時、平左衛門に宛てて送られた書状が『一昨日御書』です。その中で大聖人は、平左衛門とのやりとりが、
 「不快の見参」(同 四七六n)
であったとされ、話が平行線であったことを記されています。
 幕府は評定を受けて、大聖人の佐渡流罪を決定しました。しかし、佐渡流罪にはもう一つ裏があり、平左衛門は、大聖人を佐渡に流罪すると見せかけて、実際は処刑してしまおうとしたのです。
 この当時、佐渡に流罪となった罪人が、生きて帰ってくることは極めて稀でした。このため、佐渡への罪人をひそかに斬首してしまうことなど、平左衛門の権力をもってすれば、容易なことだったのです。
 その文永八年九月十二日の夕刻、平左衛門は完全武装の配下多数をつれて、大聖人の草庵に赴き、大聖人を逮捕しようと、松葉ケ谷の草庵に押し寄せました。その時、大聖人は平左衛門に対し、
 「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打ち殺さるゝのみならず、多くいけどりにせらるべし」(同 八六七n)
と大音声で呵責されると共に、正義を顕揚されたのです。
 これが第二の国諌です。平左衛門と配下の者は、大聖人の気迫と威厳に圧倒され、たじろぎますが、ようやく大聖人を捕縛して連行したのです。
 大聖人は後に『撰時抄』で、
 「余に三度のかうみゃうあり」(同)
と述べられますが、この時の平左衛門とのやりとりを、三度の高名の一つとして回顧されています。
 三度の高名とはこの他に、文応元(一二六〇)年七月、『立正安国論』を提出した際、宿屋入道に対して禅・念仏を捨てよと呵責されたこと。
 もう一つは佐渡配流後の文永十一年四月、平左衛門に対し、このまま謗法に帰依するなら、今年中に他国侵逼難が現実のものとなるであろうと制誡されたことを挙げられています。

 竜の口法難
 大聖人を捕らえた平左衛門は、夜中に鎌倉から海岸沿いを約十キロ、竜の口の刑場へと連行しました。
 途中、鶴岡八幡宮の前を通りかかった際、大聖人は馬を下り、「八幡大菩薩は法華経の行者を守護するという誓いを忘れたのか。八幡大菩薩はまことの神か」と大音声で諌暁されました。
 また、急を聞いた四条金吾は連行される大聖人に付き従い、刑場に到着するや鳴咽し、自らも切腹することを大聖人に言上します。その姿を見た大聖人は、四条金吾に対し、
 「これほどの悦びをばわらへかし」(同 一〇六〇n)
と仰せになったのです。
 法華経には、末法に法華経を弘める者は刀で切られ、杖で叩かれ、石を投げられると予証されています。法華経の予言が現実となり、頸を切られようとしているのは、まさに大聖人こそが真実の末法の法華経の行者であることの証明であり、大いなる悦びとして受け止められたのです。


 大聖人の頸がいよいよ切られようとしたその時、突如、江ノ島の方より月のような光り物が現れ、東南から北西の空を貫いていきました。この時の時刻は深夜一時から三時の丑寅の時刻であったと推測されますが、光り物が現れたとき、人の顔がはっきり見えるほど明るかったといいます。大聖人を処刑せんと刀を持っていた役人は目がくらんで倒れ伏し、他の兵士も怖じ気づいて逃げていきました。
 大聖人は竜の口法難のことを、
 「相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におとるべしや。(中略)娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(同 四七八n)
と仰せられています。
 この中に「日蓮が命を捨てた」と仰せの意義は、凡夫日蓮としての迹を払われたことを示します。また、「仏土におとるべしや」「寂光土ともいうべきか」と仰せの意義は、大聖人が久遠即末法の御本仏と顕れて、大聖人の居られる場所が直ちに常寂光の仏土と開かれたことを示します。
 これを末法の発迹顕本といい、大聖人は竜の口法難を縁として、凡夫日蓮の迹を払われ、久遠元初・凡夫即極の御本仏と顕れたのです。これ以後、末法の御本仏日蓮大聖人としての御化導を開始されるのです。