平成20年2月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
 『立正安国論』正義顕揚の背景
一、鎌倉期 中

 伊豆配流
 弘長元(一二六一)年、不当に伊豆流罪となった日蓮大聖人でしたが、刑の行われ方も非道なものでした。『船守弥三郎殿許御書』には次のようにあります。
 「日蓮去ぬる五月十二日流罪の時、その津につきて候ひしに、いまだ名をもきゝをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ候ひきところに、ねんごろにあたらせ給ひ候ひし事はいかなる宿習なるらん」(御書 二六一n)
 大聖人は、船で伊豆に到着した際、どこかも判らないような、上陸困難な所に放置されたのです。
 しかし、そこに川奈の漁師、船守弥三郎が船で通りかかり、大聖人を助けたのでした。船守弥三郎は夫婦で大聖人に帰依し、様々な御供養を奉じて、大聖人の伊豆での生活を助けるのです。
 「ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに、日蓮を内々にてはぐくみ給ひしことは、日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云ふところに生まれかはり給ふか」(同)
 大聖人は献身的な船守弥三郎夫妻のことを、このように述べられ、流人である自分を人目も憚らず助けるのは、父母の生まれ変わりであるとまで感謝されたのでした。


 そして大聖人は、
 「去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ侯。其の故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是程の悦びは何事か候べき」(同 二六六n)
と申され、この伊豆配流を法華経の色読・如説修行の機会として悦ばれています。
 また大聖人は、船守弥三郎の願いにより、地頭であった伊東八郎左衛門の病気平癒を行われます。大聖人の御祈念を受けて病気の癒えた伊東八郎左衛門は、網にかかって海中から出現した釈尊像を大聖人に寄進しました。

 小松原法難
 弘長三(一二六三)年二月、御年四十二歳の時、大聖人は足かけ三年にわたる伊豆流罪が赦免となり、鎌倉に戻られました。
 翌文永元年秋、大聖人は、母・梅菊女が重病であるとの知らせを受け、故郷の安房(千葉県)に赴かれます。安房には大聖人を仇敵とつけ狙う地頭の東条景信がいましたが、大聖人は帰郷を強行されたのです。大聖人が故郷に到着したのは、母君がまさに息を引き取ろうとされた時でしたが、大聖人の病気平癒の御祈念により、母君は命を四年長らえることができたのです。
 文永元年十一月十一日、大聖人一行は、東条の松原という所を通過しようとしました。すると、そこに待ち伏せていた東条景信とその配下をはじめ、数百人の念仏者が現れ、大聖人を襲撃したのです。大聖人は、この時の様子を『南条兵衛七郎殿御書』に、次のように述べられています。
 「安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり」(同 三二六n)
数百人による襲撃に対し、大聖人の一行はわずか十人であり、その中で襲撃に対応できる者は、わずか三、四人しかいなかったということです。襲撃の輩は皆手に刀を持ち、雨のごとく降る矢はすべて大聖人に向けられていました。
 その中で、大聖人は右の額に刀傷を受け、また左手を骨折されましたが、奇跡的に難を逃れたのです。しかし、弟子の鏡忍房と檀越の工藤吉隆は大聖人を守り、命を落としたと伝えられています。


 大聖人は、この小松原法難という大難にあっても、
 「『我身命を愛せず但無上道を惜しむ』是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(同)
と不退転であるとの決意を述べられております。
 数百人の徒党を組んでなお大聖人を討ち果たせなかった東条景信でしたが、その後しばらくして悶死したといいます。大聖人はその理由を、法華経の行者に仇をなした罰により十羅刹女の責めを受けたものであると仰せられています。

 二度目の『立正安国論』提出
 大聖人が『立正安国論』をもって幕府を諌暁してより九年を経た文永五(一二六八)年、遂に蒙古(大元)より牒状(回文)が届きました。その内容は、表向きは貿易を謳っているものの、内実は日本に対し蒙古の属国として軍門に下れというものでした。幕府内は蜂の巣を突いたような騒ぎになりました。
 大聖人が『立正安国論』に予言された他国侵逼の難が、まさに現実のものとして現れてきたのです。
 時を同じくして、鎌倉幕府は北条時頼の次子、時宗が執権に就任しました。時宗は北条家の中でも得宗家の頭領として、破格の権力を持っていました。鎌倉幕府では時宗の執権就任により、政治的な地固めをし、蒙古襲来に備えようとしたのです。
 大聖人はこの機を捉え、鎌倉幕府に二度目となる『立正安国論』を提出します。『立正安国論』は宿屋入道を通じて時宗に送られました。
 その時、『立正安国論』に副えて時宗に送られた書状が『安国論副状』(同四〇九n)であり、宿屋入道に送られた書状が『宿屋入道許御状』(同三七〇n)いわゆる申状です。
 しかし、幕府は再度の大聖人の諌暁も、またもや表面上、黙殺するのです。

 十一通御書と鎌倉諸大寺に対する破折
 『立正安国論』に予言した他国侵逼難が的中の様相を示し、鎌倉市中が騒然とする中、大聖人はいよいよ強硬に諸宗の謗法を破折されます。
 二度目の『安国論』提出と時を同じくした文永五年十月、大聖人は北条時宗や平左衛門頼綱などの幕閣、および極楽寺良観や建長寺道隆など、北条家が帰依する主立った僧侶らに対し、公場において仏法の正邪を決するよう書状を送ります。これらの書状は、いわゆる十一通御書といわれますが、度重なる諌言にも耳を貸さない鎌倉幕府の態度に対し、大聖人は公場において、諸宗の謗法と、悪侶の本性を暴かんと積極的に働きかけたのでした。
 幕府は大聖人の公場対決の要求にも応じることはありませんでしたが、これまで幕府の手厚い庇護を受けてきた僧侶らは、大聖人の強盛なる破折に足下を脅かされ、憎悪の念をふくらませていったのです。