平成19年9月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
             登山参詣の精神 @
 渇仰恋慕の信心
 『上野殿御返事』に、
 「かつへて食をねがひ、渇して水をしたうがごとく、恋ひて人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人、べにしろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ」(御書 一三六一n)
と、私たちの持つべき信心の在り方を示されています。それはたとえて言うならば、飢えた時に食べ物を求め、のどが渇いた時に水を欲しがるように、また恋しい人を見たいように、病気になって薬を頼りにするように、美しい人が紅や白粉をつけるのと同じように、妙法に対する信仰心を持つことです。このような純粋な信仰の在り方を渇仰恋慕の信心というのです。
 大聖人御在世当時の信徒は、大聖人を渇仰恋慕し、御目通りできる喜びを胸に、交通不便な中を歩み、困難を押して登山されました。

 阿仏房夫妻
 阿仏房は佐渡在島中の大聖人に接し、その人柄、尊容、そしてなによりもその教化に深く感銘を受け、二年数カ月に渡って妻千日尼と共に真心から御給仕申し上げました。
 文永十一年、大聖人が佐渡配流を赦免になり身延に入られると、直ちに大聖人のもとへ参詣されました。
 当時、佐渡から身延までは高齢の阿仏房の足で二十日以上もかかりました。その道程は、日本海の荒波を越えて険しい山道を歩き、山賊などに襲われる危険を回避しながらなど、たいへんなものでした。しかし、阿仏房たちは大聖人への渇仰恋慕の思い止みがたく、道中の苦難を顧みず参詣を果たしたのです。
 阿仏房と国府入道が身延に到着したとき、その喜びを大聖人は千日尼と国府尼に宛てた御手紙に、
 「ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをばへ候へ」(同 七四〇n)
と、その喜びを表されています。
 阿仏房の感激もまた一入であったと推察されます。

 真心からの大聖人への御給仕
 『是日尼御書』に、
 「さどの国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎやとをもひしに、又今年来てなつみ、水くみ、たきぎこり、だん王の阿志仙人につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。ふでをもちてつくしがたし」(同 一二二〇n)
と、阿仏房が、ひと月あまりも大聖人にお仕え申し上げたことが記されています。
 長い道中を経て御目通りが叶った阿仏房は、大聖人に少しでも御奉公申し上げたいとの一念から、薪を切ったり、菜を摘んだり、沢へ下って水を汲むなど、真心からの御給仕に励んだのです。
 これらはまさに、法華経『寿量品』に、
 「心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし」(法華経 四三四n)
と説かれるように、求道心からくる信心の行体であり、ここに登山の基本精神があるのです。

 毎年度々の御参詣
 阿仏房が三回目に身延へ参詣した時は九十歳の老齢に達していました。
 大聖人は、『千日尼御前御返事』に、
 「去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」(御書 一二五三n)
と説かれ、高齢の阿仏房を五カ年の間に三度までも身延に送り出した千日尼の深い信心を「大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざし」と御ほめあそばされています。
 弘安二年三月、阿仏房は九十一歳で逝去しましたが、その遺骨は子息・藤九郎守綱の手によって身延に運ばれ、阿仏房は最後の身延参詣を果たしたのです。
 大聖人の弟子として、何としてもお側でお仕えしたいとの一途な気持ちから、老齢を顧みず、度々極寒の佐渡より登山した阿仏房、また、危険な旅を承知で夫を送り出し、留守を守った老妻と、その求道心にあふれる信心修行の姿は、たとえ時代は変わっても信仰者の手本です。
 大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
 「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」(同 一五〇二n)
と仰せです。現在の私たちの登山の精神も、まさにここにあるのです。
 このように登山参詣の原点は、大聖人をお慕い申し上げる渇仰恋慕の心と、大聖人・戒壇の大御本尊への御報恩謝徳にあります。
 そして「毎年度々の御参詣」と、大聖人の御言葉があるように、生涯一度でも多く登山をさせていただき、大功徳に浴した信行と生活を送っていこうではありませんか。
 私たちは、戒壇の大御本尊に名を記された法華講の一人として、年に度々の登山をさせていただき、大御本尊への御報恩と、広布を誓い、折伏を実践する信心の境界に住するよう、さらなる精進をしていきましょう。