平成19年8月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
御登山の意義について

 登山の本義

 日蓮正宗では、総本山大石寺に参詣することを登山と称します。
 総本山大石寺には、大聖人の御魂魄(ごこんぱく)である本門戒壇の大御本尊と、大聖人以来の血脈相承を御所持あそばされる御法主上人猊下がいらっしゃいます。登山の本義は、大聖人の御魂魄、本門戒壇の大御本尊にお目通りし、御法主上人猊下の大導師のもと、真の世界平和と広宣流布を祈り、また私たちの罪障消滅と即身成仏を期することにあります。
 大聖人は『南条殿御返事』に、
 「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん(中略)参詣遥(はる)かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨(らいりん)を企つべし。是にて待ち入って候べし」(御書 一五六九n)
と仰せです。
 この書は、南条時光殿が大聖人のもとに御供養の品々を送られた御返事として賜った御書です。
 この御書で大聖人は、御供養のお志はたいへん尊いけれども、真の罪障消滅と即身成仏は登山参詣によって得られるから、速やかに登山参詣を期しなさいと、南条時光殿に対し、登山が遠のいたことへのご注意を促(うなが)されたのです。
 総本山第五十六世日応上人は、本門戒壇の大御本尊について、
 「此の御本尊は久遠の本仏日蓮大聖人の御魂(おんたましい)で御本体なるが故に、直々霊山に詣でゝ生身(しょうしん)の日蓮大聖人様へ御目見(おめみえ)し奉る事よと存じて、臨終の夕べ迄も忘れ奉らざる様に信敬すべきなり」(日応上人全集 一巻 七n)
と御指南されています。
 まさに戒壇の大御本尊こそ常住不滅の御本仏日蓮大聖人の御当体なのです。南条時光殿が大聖人のもとに登山参詣を尽くしたように、私たちも戒壇の大御本尊を生身の大聖人と拝し、機会あるたびに登山参詣するよう心がけましょう。

 本門戒壇の大御本尊は一切の御本尊の根源

 日応上人は、
 「当宗に於て授与する処の御本尊は、一切衆生に下し置れたる此の御本尊の御内証を、代々の貫主職一器の水を一器に写すが如く直授相伝(じきじゅそうでん)の旨を以て之を写し奉り授与せしむる事なれば、各の其持仏堂に向ても直に此の御本尊を拝し奉る事よと相意得(あいこころえ)」(同 一巻 九n)
と御指南されています。
 日蓮正宗では、寺院や信徒宅など、いずれの場所に御安置されている御本尊に対しても「本門戒壇の大御本尊」と拝し奉り御報恩謝徳いたします。
 その理由は、日蓮正宗の御本尊は、すべて御法主上人猊下が本門戒壇の大御本尊の御内証を書写して授与された、本門戒壇の大御本尊の分身だからです。したがって、本門戒壇の大御本尊に対する絶対の信心をもって御本尊を拝することが、あらゆる功徳を享受する源泉ですから、日頃から常に総本山参詣を求めるという気持ちをもって、信行に励むよう心がけたいものです。

 総登山会等への参加の意義

 大聖人は『上野殿御返事』に、
 「抑(そもそも)今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」(御書 一二〇六n)
と信心の心がけについて御指南されています。
 この御書も南条時光殿に与えられた御書ですが、私たちの信心ははかないもので、ややもすると怠(おこた)る気持ちが生まれてきます。
 「とをざかりぬればすつる心あり」と仰せられた意味は、総本山および所属寺院への参詣から遠ざかっていては、仏法を捨てる気持ちが生じて、ついには退転してしまうということです。常日頃から積極的に所属寺院の行事に参加し、また総本山への参詣を志すことは、こうした意味からも非常に大切なのです。
 大聖人御在世当時も、日興上人をはじめとするお弟子方が、各地で布教に当たっていました。特に南条時光殿は日興上人から常日頃より教化(きょうけ)を受けていたのです。
 一方で『曽谷(そや)殿御返事』には、
 「今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ。此らは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ」(同 一三八六n)
とあり、百人以上の弟子檀越が大聖人のもとに集って法華経を読誦し、大聖人の法華経の御講義を聴聞していたのです。当然、南条時光殿も参加し、大聖人より直々に御講義を受けたことでしょう。
 こうした大聖人御在世当時の信心を、今日の私たちの信心修行に当てはめてみると、南条時光殿が日興上人から様々な薫陶を受けたように、まずは所属寺院の御講や勉強会に参加して御住職より仏法の有り難さ、信心の大切さなどを伺って、自らの信心向上に励むことです。
 そして、大聖人の御もとで、直々に御講義が開かれたのと同じように、法華講連合会の総登山や、夏期講習会の登山に参加して、大聖人以来の唯授一人の血脈を御所持あそばされる御法主上人猊下より、直々に御講義を受けることです。こうしたことが現代の「一えんぶだい第一の仏事」に当たるといえるでしょう。


 師弟相対の信心

 日蓮正宗総本山大石寺には代々の御法主上人猊下が、師弟相対して大聖人以来の血脈相承を受け継いでこられたことにより、大聖人の仏法が寸分違わず伝えられています。
 したがって総本山に登山し、御法主上人猊下に師弟相対の信心を取ることはまことに重要ですから、その機会を軽んじてはいけません。
 先ほどの『上野殿御返事』に、「水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」と仰せられた、水の流れるようなたゆまぬ信心は、総本山参詣・寺院参詣によって得られるのです。
 逆に、大聖人様の「とをざかりぬればすつる心あり」との御言葉は、総本山への登山参詣を軽んじ、所属寺院の信心活動から遠ざかり、自分一人で信心をしていたのでは、いずれは退転してしまうということです。
 私たちは、「水の流れの如きたゆまぬ信心」を信仰の基本姿勢として据え、常に仏法を求める心、総本山参詣・寺院参詣に努めていきましょう。