平成19年4月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          折伏とは @
 折伏とは、日蓮正宗の教えをまだ知らずにいる人や信仰のできない人に対して、不幸の原因が誤った思想や宗教にあることを教え、日蓮大聖人の仏法こそが真実の幸福を得る道であるとして、正信に導く行為をいいます。
一切の人々に即身成仏という最も幸福な境涯をもたらす折伏は、世の中を清浄・安穏にして、真の世界平和を築いていく尊い慈悲の振る舞いなのです。

摂受と折伏
仏は、教えを弘める手段として「摂受」と「折伏」を示されました。
 摂受とは、人々の機根に応じて、徐々に誤りを正して真実の法に導く方法をいいます。これに対して折伏とは、邪義の存在を許さず、ただちに破折して真実の法に導く方法をいいます。
 日蓮大聖人は、
「摂受・折伏時によるべし」(御書五七八)
「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす」(同 五七五)
と仰せのように、謗法の者が多い末法の今日には、ただ折伏を用いて弘教すべきであると定められているのです。

南無妙法蓮華経の修行は自行・化他にわたる
 大聖人は、
「末法に入っては今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(同 一五九四)
「御義口伝に云はく、勧とは化他、持とは自行なり。南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と勧めて持たしむるなり」(同 一七六〇)
と仰せられ、大聖人が唱え出だされた題目は、自行化他に亘ると示されています。
 これは、自行としての勤行・唱題に励むことはもちろん、化他行としての折伏を実践していくことが、真の大聖人の門下たる私たちの修行であるとの御教示です。
 もし、自行の勤行・唱題ばかりで折伏をしなければ、それは無慈悲の極みとなりますし、本当の意味で大聖人の仏法を信じていることにはなりません。それどころか、結果として謗法を容認する与同罪によって不幸の因を積むことにもなります。
 私たちは自分のみならず、多くの人たちがこの大聖人の仏法によって幸福となり、平和な社会を築いていくためにも、折伏を進めていくことが大切です。

 唱題を根本に勇気をもって折伏実践
「折伏しなければならない」と聞くと、尻込みをする人がいるかもしれませんが、何も難しく考えることはありません。行動することです。
 折伏には「こうすればできる」とか、「こうすべきだ」などという決まりはありません。しかし、大切なのは相手の幸福を祈って、御本尊様へしっかりと唱題をすることです。唱題せずに折伏が成就することはありません。必ず唱題をしてから出かけ、誠意をもって折伏しましょう。
 また、時には折伏をしている相手から悪口を言われたり、罵られたりする場合もあるでしょう。しかし『転重軽受法門』に、
「不軽菩薩の悪口罵詈せられ、杖木瓦礫をかほるも、ゆへなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆへかとみへて『其罪畢已』と説かれて候は、不軽菩薩の難に値ふゆへに、過去の罪の減するかとみへはんべり」(同 四八〇n)
と仰せのように、それこそ自分自身の過去世の罪障を消滅する時と心得て感謝しましょう。同時に、その誤りを仏法の道理から破折し、正法を教えていくことが真の慈悲であり、折伏精神の原点であると確認しましょう。
「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(同一一〇九n)
との御金言を胸に懐き、いかなる相手に対しても臆することなく、勇気をもって折伏を実践しましょう。

異体同心の折伏活動
 折伏の現場では、ある人はすんなりと信心の話を受け入れて入信したり、またある人はなかなか話に聞く耳をもたず、自分でもうまく話ができずにもどかしい思いを懐くことがあります。
 壁にぶつかった時には、指導教師の御指導を受け、また法華講の同志に相談したり、連れ立って折伏に行ってもらうなど、一人で抱え込まないで異体同心の折伏活動を行いましょう。
「日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(同一三八九n)
との御金言を拝し、指導教師を中心に、講頭・役員と共に支部組織が一丸となって互いに助け合いながら、折伏に励んでまいりましょう。