平成18年10月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
代 奏
 大聖人は、弘安四(一二八一)年、さらに弘安五年にも朝廷を折伏するため、日目上人を代奏に発たせています。日興上人最晩年の元弘二(正慶元・一三三二)年の御本尊には、
「最前上奏の仁、新田卿阿闇(梨)日目に之を授与す一が中の一弟子なり」
との脇書きがありますが、この「最前上奏の仁」の意味は一番最初に天奏を遂げた方という意味であると思われます。しかも日目上人は弘安五年の天奏の際には、後宇多天皇より、
「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」
という下し文を賜っています。



大聖人御入滅
 弘安五(一二八二)年九月、大聖人は常陸の湯(福島県いわき市)に湯治に向かわれました。日目上人も、師匠の日興上人と共に大聖人のお供に加わり、常陸に向かわれました。途中、武蔵の国池上宗仲の館(東京都大田区)に立ち寄られますが、その地が大聖人御入滅の地となるのです。
 そこに大聖人の逗留を知った、天台宗の僧侶・伊勢法印が数十人を引き連れて問答を挑んできました。
大聖人は、
「卿公問答せよ」(日蓮正宗聖典六〇三n)
と仰せられ、日目上人に問答の相手を命じられました。この時、日目上人は伊勢法印の問難を一々に破折し、伊勢法印はついに閉口し、日目上人に屈服するのです。
 大聖人は、
「日興に物かかせ日目に問答せさせて又弟子ほしやと思わず小日蓮小日蓮」(同 六五四n)
と、日興上人と日目上人を「小日蓮」と評しておられますが、まさに日目上人は問答の名手だったのです。
 大聖人は池上で最後の力を振り絞り、柱にもたれながら『立正安国論』の御講義をされたと伝えられています。
 日目上人は大聖人のこの御振る舞いを拝し、広宣流布への誓いを新たにされたに違いありません。
 大聖人は弘安五年十月十三日、弟子・檀越に見守られる中、御入滅あそばされました。
 日目上人は大聖人の葬送に際し、大聖人の棺の前陣右側を担われています。

奥州弘教
 池上では大聖人葬送の後、『墓所守るべき番帳の事』が制定されます。日興上人は大聖人正統の後継者として身延に入山されますが、その他の弟子も当番で、大聖人の墓所に大聖人生前のごとくに常随給仕申し上げることが定められました。
 日目上人も墓所の番に任ぜられ、自分の当番以外の時には奥州に布教に赴かれたのです。
 日目上人は新田家の御出身で、日目上人の祖父、父はもともと奧州新田の地(宮城県登米市)に暮らしており、日目上人の縁者も奧州に大勢おられたようです。日目上人の弘通により、奥州に上行寺などの寺院が建立されたのです。

身延離山と日目上人の大石寺運営
 日興上人は身延の別当(住職)として身延に住まわれていましたが、地頭・波木井実長や民部日向の謗法により身延を離れ、富士に移ることになりました。
 日興上人は南条時光殿の庇護のもと、正応三(一二九〇)年十月十二日に大石寺を建立され、その翌日、日目上人に血脈相承を内付されています。
 内付とは、公には知らされない御相承のことです。しかし日興上人は、日目上人に血脈相承の証となるべき大幅の御本尊、通称「譲座御本尊」を授与されています。
 日興上人は大石寺建立の八年後、永仁六(一二九八)年に大石寺からほど近い重須に談所(講義所)を開かれ、後進の指導に専念せられました。そして、大石寺は名実共に日目上人に譲られたのです。
 日目上人は、日興上人が定められた本六僧を中心として大石寺の運営に当たられました。本六僧が本堂の香華当番をするということは、七百年以上経った現在も、御本番六人、御助番六人という制度に、厳然と受け継がれています。

日興上人の御遷化
 日興上人は御遷化の前年、元弘二(正慶元・二二三二)年に日目上人への血脈相承の意義を門下に徹底させるべく『日興跡条々事』を著されました。その中には、
「日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以来七十三歳の老体に至るも敢へて違矢の義無し」(御書一八八三n)
と、日目上人の御振る舞いがすべて日興上人の御意に適ったものであったことが記されています。
 日目上人のみが、日興上人の生前より唯一、御本尊書写を許され、さらに「違矢の義無し」と日興上人の仰せを賜っているのです。この事実からも、日目上人が日興上人の正統な後継者として血脈相承を受け継がれていることは疑う余地がありません。
 日興上人は日目上人に跡を託され、元弘三(正慶二・一三三三)年二月七日、安祥として御遷化あそばされました。

御遷化
 日目上人は、生涯四十二度にもわたる天奏を果たされたと言われています。最後の天奏は日興上人が御遷化された年、元弘三年の十一月に、七十四歳の身を押しての出発でした。
 日目上人は、出発前、日道上人に金口嫡々の血脈相承を授けられました。そして日尊師、日郷師らの弟子をお供として天奏に発たれますが、二度と大石寺に戻られることはありませんでした。
 日目上人は、美濃の垂井の地(岐阜県垂井町)で、吹きすさぶ鈴鹿おろしの中、病床に臥し、十一月十五日、安祥として御遷化あそばされます。
 日尊師、日郷師は日目上人を荼毘に付し、御遺骨を抱いて代奏を果たされます。そして、日尊師は京都の布教を志されて京都に留まり、日郷師は御遺骨を抱いて富士に戻られたのです。


一閻浮提の御座主
 日目上人の辞世に、「代々を経て思をつむぞ富士のねの煙よをよべ雲の上まで」(富士宗学要集)
との歌を詠まれています。
 この意味は、富士大石寺のみに継承される血脈正統の仏法は、代々の御法主上人に受け継がれ、広宣流布への思いは富士よりも高く「雲の上まで」届き、必ず成就するのであるとの、熱烈な願いを表現されたものであります。
 このことから古来、宗門では、一閻浮提広宣流布の暁には必ず日目上人が再来され、一宗を統率あそばされると伝えられています。
 日目上人の生涯は、ひとえに大聖人がめざされた、大慈大悲による立正安国の御精神に則ります。私たちは、今、日目上人の御振る舞いを通じ、「『立正安国論』正義顕揚七百五十年」という重大佳節の意義を再確認し、折伏の実践に徹して、御命題の成就に邁進していきましょう。