平成18年9月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
御 誕 生

 第三祖日目上人は、奇しくも大聖人が『立正安国論』を提出された文応元(一二六〇)年に、伊豆の畠郷(現在の静岡県伊豆の国市)に御誕生されました。
 父は新田五郎重綱といい、母は南条兵衛七郎殿の長女で南条時光殿の姉に当たる方で蓮阿尼といいます。
 日目上人は、幼名を虎王丸といい、誕生まで母の胎内に十二カ月おられたと言われています。この奇瑞は聖徳太子と同じであり、生まれる前より非凡さを伺わせる兆候がすでにあったのです。

新田家と南条家
 新田家は、もともと小野寺という姓を名乗り、下野(現在の栃木県)に暮らす一族でしたが、日目上人の祖父・重房が奥州新田(現在の宮城県)の地に移ってから、新田の姓を名乗るようになったとされています。新田家は、後に伊豆の畠郷の地も領するようになります。
 大石寺の開基檀那である南条時光殿が誕生した南条家は、北条家の御家人であり、元来、伊豆の畠郷に隣接する南条の地を収める領主でした。
 時光殿の父である兵衛七郎殿は、その後、上野の地も領することになります。
 新田重綱の妻として、時光殿の姉である蓮阿尼が嫁がれたのも、伊豆の地で新田家と南条家に親交があったからでしょう。

走湯山入山

 新田家では、虎王丸が五歳になる頃までに、虎王丸の祖父母と父が相次いで逝去するという哀しい出来事に見舞われました。そうした中、新田家では虎王丸の将来に期待をかけ、虎王丸十三歳の時、武士の子弟の学問修養所ともなっていた走湯山に入山させたのです。
 走湯山は伊豆山ともいい、熱海にほど近い場所にあります。虎王丸は、走湯山の円蔵坊という住坊に暮らし、日夜勉学に励みました。

日興上人との出会い
 文永十一(一二七四)年、日興上人は、佐渡からお戻りになった大聖人を身延まで御案内した後、折伏弘通の教線をいよいよ拡大されました。日興上人が富士方面に赴かれた際、南条時光殿の甥に当たる虎王丸が走湯山に修学されていたことも、当然、耳に入ったことでしょう。日興上人は虎王丸を訪ねるため、走湯山に赴かれました。また走湯山は、日興上人が弘長元(一二六一)年に折伏した元真言僧の行満と因縁が深い場所です。
 虎王九十五歳の時、日興上人が走湯山を訪れ、そのとき、日興上人と、山内随一の学匠と謳われた式部僧都との問答が行われました。
 日興上人と式部僧都との問答が重ねられるうち、式部僧都は言葉に詰まり、虎王丸は幼いながらに日興上人の学識の深さと偉大さに感銘を受けたことでしょう。虎王丸は、このとき、日興上人の弟子として出家することを決意したのです。

出 家
 虎王丸は、日興上人と出会ってから二年間、昼夜の別なく勉学に励み、出家の時を待ちました。そして建治二(一二七六)年四月八日に、走湯山において日興上人を師匠として出家得度し、その後、日興上人と共に身延に登り、大聖人に御目通りをしました。さらに、大聖人からも身延山における修行を許されるのです。
 日目上人の身延山における修学を物語るものとして、得度の翌年の健治三(一二七七)年には、大聖人様の講義を筆録したと思われる日目上人直筆の書物が伝えられて
います。

常随給仕

 日興上人は、大聖人の直弟子の中で大聖人の御本仏としての御境界をただ一人、拝信されていました。日興上人は身延入山まで常に大聖人のお側で伊豆、佐渡へと艱難を共にされてきましたが、大聖人の身延入山後は、富士方面への折伏に、またそれに伴って生じた熱原法難の対処のために、身延を留守にされることが多かったと思われます。そのような中、日目上人は、師匠である日興上人の御意を体し、大聖人に常随給仕されたのです。
 古歌に、
「法華経を 我が得しことは 薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞえし」

とあるように、日目上人は、大聖人こそ末法の御本仏であり、その御本仏への御給仕が自らの法華経修行であるという深い自覚に立たれていたと思われます。また、宗門に伝わる日目上人の御影は、頭上に水桶を乗せて大聖人に常随給仕をされ、頭頂の平らになったお姿が伝えられています。

御本尊授与
 弘安二(一二七九)年二月に、大聖人から日目上人に対して御本尊が授与されています。
 日興上人の『弟子分本尊目録』には、
「新田卿公日目は、日興第一の弟子なり。依て申し與ふる所、件の如し」(歴代法主全書)
と日興上人が大聖人に申し上げて御本尊を授与していただいたことが記されています。
 日目上人が御本尊を授与された弘安二年は、大聖人御入滅の三年前であり、九月には熱原法難が起こり、十月には大聖人が本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされるという重要な年に当たっていました。
 師匠の日興上人は、大聖人の御境界の深まりと呼応して、お側で仕える御弟子・日目上人の信心修行が深まりを見せていったのを感じ取られていたことでしょう。