平成18年7月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
 御本尊様へのお給仕
 宗祖日蓮大聖人様は、末法濁悪の世に生きる人々は、一切の邪法邪師の邪義を捨てて、法華経の肝要である南無妙法蓮華経を信仰することによってのみ、成仏することができると仰せられました。
 しかし、そのために他宗の人々から恨まれ、ある時は命を狙われ、またある時は伊豆や佐渡に流されるなど、多くの難を受けられたのです。
 第二祖日興上人様は、その大聖人様に対して、身に影の添うよう常にお仕えし、大聖人様の説かれた仏法のすべてを実践されました。そして、大聖人様こそ、末法の衆生を救う下種の教主にして、久遠元初に悟りを開かれた御本仏であり、その御当体が妙法蓮華経の御本尊様であると悟られました。
 私たちは、日興上人様が大聖人様にお仕えしたように、御本尊様を大聖人様と拝してお給仕することが最も大切です。
 また、世間でも、武道や茶道などの「道」のつくものや、弟子が師匠から学び体得する職業の多くは、必ず型から入ります。これは型通りに稽古することによって、やがてその所作に魂が追いつき、その道を窮めることができるようになるからです。
 これと同じように、信心においても、初心の時から御本尊様に対して、正しくお給仕をし、正確な勤行・唱題を行っていくことが大切です。やがてその人の信仰が深まり、自然とその所作に信心が表れるようになるからです。

 
三 具 足 の 場 合 五 具 足 の 場 合
 仏壇の荘厳(三具足・五具足)
 御本尊様の前を「御宝前」といい、向かって左側に「華立て」、中央に「香炉」、右側に「燭台」の三具足を置きます。
 華立てには「樒」を挿しますが、この樒には、仏様の生命の永遠と尊い徳を表し、その香りは清浄にして不浄を清めると言われています。
 香炉には線香を寝かせて焚き、その香りを御本尊様にお供えします。
 燭台にはローソクが用いられ、その灯りを御本尊様にお供えします。
 三具足のほか、華立てと燭台を左右一対にする五具足を置いても構いません。
 法華経に、木樒や抹香・塗香・焼香などをもって仏を讃歎供養することが説かれているように、これらの仏具をもって御本尊様を荘厳し、香りや灯りを御供養することには大きな功徳があります。
 また仏壇は、御本尊様のお住まいですから、その上に物を飾ったり、仏壇の中に位牌や写真を置いたりしてはいけません。
 自分の家を毎日掃除するように、仏壇も毎日掃除をし、塵などが積もらないようにしましょう。このとき、御本尊様に息がかからないように、口に樒の葉をくわえてお掃除します。お水や仏飯等をお供えするときも同様です。


 お水・仏飯・お供えについて
 御本尊様にお供えする水は、梵語で「閼伽」といい、功徳水と翻訳されます。
 釈尊が出現されたインドでは、水は価値のあるものとして大切にされていたことから、転じて仏様や墓前に水を供えるようになったと言われています。
 毎朝、樒の先端を入れた器に朝一番の水を注いで、朝の勤行の前にお供えし、夕方の勤行の前にお下げします。
 次に、御本尊様にお供えするご飯を「仏飯」といいます。ご飯を炊いたときには、炊きたてのご飯を金椀に盛ってお供えし、
「南無下種三宝御報恩謝徳御供養の為、南無妙法蓮華経」
と観念をして、鈴を三打して題目三唱します。また、お供えしたままにせず、すぐにお下げしますが、お下げした仏飯を食しても構いません。

 
 なお、仏飯を置く位置は、仏壇の形式などの違いによって一様ではありません。
 ほかにも御造酒やお菓子、季節の野菜や果物をお供えしますが、魚や肉などの生物や、ニラ・らっきょう・ねぎ・にんにく・しょうがの五辛はお供えしません。


 法統相続
 御本尊様へのお給仕は、私たちが直接仏様にお仕えすることであり、真心で行うことが肝要です。
 よく「仏壇に積もった塵は、信心に積もっている塵」、「仏壇を見ればその人の信心が判る」などと言うように、私たちの信心が仏壇の姿やお給仕の所作に表れるのです。
 御講に参詣したり、唱題会に参加したり、仕事が忙しくても信心の活動をゆるがせにせずに勤めていく姿、御本尊様にお仕えする姿を、必ず子供は見ています。
 したがって、私たちは、日々のお給仕を子供に見せたり、お給仕のお手伝いをするよう躾けるなど、御本尊様にお仕えすることの大切さや信心の在り方などを、身をもって教えていくことが法統相続につながるのです。
 大聖人様は『上野殿御返事』に、
「抑今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり。此はいかなる時もつねはたいせずとわせ給へば、水のごとく信ぜさせ給へるか。たうとしたうとし」(御書一二〇六頁)
と仰せられ、南条時光殿が、あたかも水が一時も途切れることなく流れるように、日々怠ることなく信心修行に励まれていると讃えられています。
 このように、私たちは、日々怠慢なく御本尊様にお給仕し、勤行・唱題を申し上げ、折伏に励んでいくことが大切なのです。