平成18年6月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
日興上人様(下)

本門弘通の大導師
 日蓮大聖人は、弘安五(一二八二)年十月十三日、武州池上(東京都大田区)において御入滅されました。
 御入滅に際し、大聖人は正統の後継者として日興上人を選定され、一期の弘法のすべてを日興上人お一人に血脈相承されました。これによって日興上人は、一宗の棟梁として、大聖人が御入滅までの九カ年を過ごされた身延山久遠寺の別当(住職)となられたのです。
 また、大聖人は、御自身の墓所を身延に定め、本門弘通の大導師として常駐される日興上人のもと、その他の弟子が交代で墓所を守るべきことを御遺言されました。しかし、日興上人に背反した五老僧たちは、その定めを守ることなく、大聖人の一周忌・三回忌法要にも参詣しないという不知恩の態度を示し、二年余りもの断絶状態が続きました。



謗法厳誠
 そうした中、五老僧の一人である民部阿闍梨日向が身延に登山してきました。日興上人は日向を大いに歓迎し、住職に次ぐ地位の学頭職を与えて教導の補佐に当てられました。
 ところが日向は、厳格に大聖人の謗法厳誡の精神を貫く日興上人の御指南に反発し、やがて数々の謗法を容認するようになったのです。また、身延の地頭であった波木井実長は、日興上人の教化を受けて入信したのですが、次第に仏法より世法を重んじ、迎合する日向に感化されていきました。そして、釈迦一体仏造立をはじめ、伊豆権現・箱根権現・三島大社への神社参詣、福士(山梨県南部町)の念仏供養塔建立、念仏道場建立という四箇の大謗法を犯すに至り、再三再四訓告される日興上人に対し、ついに実長は、
「我は民部阿闍梨を師匠にしたる也」(日蓮正宗聖典 五六〇n)
との暴言を吐き、身延は謗法の山と化してしまったのです。

身延離山
 大聖人は、御在世中すでに実長の薄弱な信心を予見されていました。このため日興上人に対して、「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(同五五五n)
と、地頭が謗法を犯すような事態になれば、身延を離れるように御指南され、さらに、
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書一六七五n)
と、広宣流布の根本道場たる本門事の戒壇は富士山麓に建立すべきことを御遣命されていました。
 正応二(一二八九)年春、日興上人は意を決し、大聖人の御遺命に従い、大聖人の御魂魄たる大御本尊と御霊骨をはじめ一切の重宝を捧持し、身延を離山されて富士上野の地に移られたのです。

大石寺創建
 富士の上野では熱原法難の折、大聖人より、
「上野賢人殿(同一四二八n)
と称賛された大檀越・南条時光殿が、日興上人をお迎えしました。
 富士山麓に広がる雄大な大石が原こそ、大聖人が、
「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(同一五九五)
と御遺命あそばされた、「四神相応の勝地」(同一八七三)に他なりません。
 正応三(一二九〇)年十月十二日、日興上人は南条時光殿の外護のもと、大石寺を開かれたのです。
 大石寺の開創と共に日興上人は、日目上人を正法伝持の後継者とお認めになり、大聖人よりの血脈法水を内々に付嘱あそばされました。



譲座御本尊
 大石寺開創の翌十三日に、日興上人が御書写された大幅の御本尊が日目上人に授与されました。
 この御本尊は、通常の御本尊と御署名の位置が入れ替わり、日興上人の御署名・花押が右側に移り、左側には日目上人への授与書きが認められています。つまり御当代の御法主上人猊下が御署名・花押されるところに日目上人の御名が認められているわけです。このとき既に、日興上人が日目上人へ内々に付嘱されたことを示すもので、その証として授与された御本尊と拝せます。ゆえに御座替御本尊、または譲座御本尊と称されています。
 現在も、総本山客殿に御安置されています。

後進の育成
 永仁六(一二九八)年、日興上人は日目上人に大石寺を譲られ、御自身は大石寺より東に二キロほど離れた重須の地に談所を開創されます。談所とは、弟子に対し法門を講義する場所ということです。このとき、正式に日興上人は一宗を代表する大導師の立場を日目上人に譲られ、御自身は後進の育成に当たられたのです。
 さらに日興上人は、本弟子として六人、新弟子として六人を定め、それぞれに宗門を守り運営していくための人材を育成されて磐石な体制を築かれました。
 また、大導師として第三祖を継承された日目上人は、宗開両祖の死身弘法の精神を貫かれ、生涯四十二度に及ぶ天秦を遂げられました。天奏とは、当時、社会的に強い影響力を発揮していた朝延を折伏し、広宣流布をめざすことをいいます。
 日興上人は、御遷化前年の元弘二(一三三二)年十一月三日に日目上人に対し、改めて御本尊を授与され、その授与書きに、
「最前上奏の仁、新田卿阿阿闍(梨)日目に之を授与す一が中の一弟子なり」
と、日目上人の大折伏の功績を称えられると共に、改めて「一が中の一弟子」と、比類ない弟子であることを明示されています。

御遷化
 日興上人は、元弘三(一三三三)年二月七日、八十八歳を一期として御遷化されます。御遷化に際し日興上人は、大聖人より賜った広宣流布の御遺命を改めて日目上人に託され、
「広宣流布が達成され、大石寺が本門寺と改称される時、日目上人が一閻浮提の座主となること。また、大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊を日目上人に相伝すること。さらに日目上人は、大聖人の御影や御霊骨のまします大石寺を厳護し、丑寅の勤行を怠らず広宣流布を待つべきこと(趣意)」(『日興跡条々事』御書一八八三n)
を厳命されました。
 さらに日興上人は、大聖人の仏法を寸分違わず伝えていくため、二十六箇条にわたる『日興遺誡置文』を定め、ここに広宣流布達成のための万代の亀鑑が示されたのです。

令法久住
 御本仏日蓮大聖人が御入滅されて七百数十年を経た現在、唯一、日蓮正宗のみが大聖人の正法正義を今に厳護・継承でき得るのも、ひとえに御本仏大聖人と師弟不二の信心を貫き、正しく伝持された日興上人がおわしませばこそです。総本山大石寺では今も御本番六人、御助番六人が御法主上人猊下にお仕えし、毎日の仏祖三宝へのお給仕を行うという制度が厳然と受け継がれていますが、この濫觴が日興上人の本弟子六人、新弟子六人にあることは言うまでもありません。
 私たち日蓮正宗の僧俗は、日興上人の御精神と御振る舞いを正しく拝し、血脈付法の御法主上人猊下御指南のもと広宣流布に向かってて異体同心の信行に励むことこそ、日蓮大聖人が仰せの信仰そのものであることを忘れてはなりません。