平成17年8月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
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大聖人様の御名前
幼名「善日麿」
 大聖人は幼名を善日麿と称されます。その名前の由来は、大聖人の母、梅菊女が、大聖人の誕生時にご覧になられた夢に由来しています。『産湯相承事』(御書一七○八頁)には、まず大聖人のご両親が、大聖人ご懐妊のときにご覧になった不思議な夢について記されています。
 母の梅菊女は、比叡山の頂に腰掛け、琵琶湖の水で手を洗うと、富士山から太陽が昇り、その日輪を梅菊女か懐くというものでした。またこのとき、大聖人の父、三国太夫も、夢に、虚空蔵菩薩が肩の上に見目美しい子供を乗せて現れ、「この子は上行菩薩といい、一切衆生を導く大導師である。この子を汝に授ける」といわれたというものでした。
 また、大聖人ご誕生時にも梅菊女は不思議な夢をご覧になられました。それは、梵天・帝釈等の諸天善神が現れて、「善哉善哉、善日童子、末法教主勝釈迦仏」と三度唱え、礼をして去っていかれたというものです。
 それにより、大聖人様は「善日麿」と名付けられたということです。ちなみに「麿」とは、鎌倉時代では子供を示す言葉です。
 さらに大聖人様は、この母の夢について、母の物語と思ってはならない。仏の言葉と拝しなさいと、日興上人に語られました。つまり「善日」という名は大聖人ご誕生以前より、諸天をして、そのように呼称されていたということです。

出家の名「是聖房蓮長」
 善日麿は十六歳の時、清澄寺の道善房を師として出家し、「是聖房蓮長」と名乗られました。
 蓮長は清澄寺において、師匠や先輩の浄顕房・義浄房などから薫陶を受け、勉学に励まれました。そこで蓮長は仏教の盛んな日本で何故戦乱や天変が続くのか等の原因を深く尋ねるため、鎌倉や比叡山に学ばれました。蓮長はその研鑚の中で、釈尊の説く仏法の本懐は法華経であり、その法華経に予証された末法の一切衆生を救う上行菩薩こそ日本に生まれた自分であるとの確信を深められたのです。しかも是聖房の「是」とは、「日」の「下」の「人」と表記されるのです。
 さらに蓮長は、「日本第一の智者となし給へ」(御書 四四三頁)
「末代の衆生の為には何をもって本尊となすべき(趣意)」
等と虚空蔵菩薩に願いを立てられました。すると虚空蔵菩薩より「智慧の宝珠」を右手に賜り、一切経の勝劣・浅深が手に取るように明らかとなり、また本尊については、
「汝の身を本尊とせよ明星の池を見給え(趣意)」
と告げられたということです。そこで蓮長は御自分の姿を「明星の池」写したところ、そこには大漫荼羅本尊が現れ、末法の一切衆生を救済する方法は三大秘法の広宣流布であるという確信を得られるのです。

「日蓮」の名乗り
御自分こそ、末法の一切衆生を救済する仏であるとの確証を得られた蓮長は、建長五(一二五三)年三十二歳の御時、下種仏法の立宗を宣言あそばされました。このときに当たって、「蓮長」の名を「日蓮」と改められました。
 まず三月二十八日には順縁というべき、師匠の道善房と少々の大衆に御法門を示し、また四月二十八日には、逆縁の衆生を導くために念仏の強信者等にも念仏無間等の訪問を説かれました。
 それにより、怒った念仏者等は大聖人に刀杖を加え、悪口を浴びせましたが、大聖人の信念は決して揺らぐことはありませんでした。
 法華経には末法出現の御本仏の衆生救済の御化導について、次のように記されております。
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」(法華経 五一六頁)
「世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(同 四二五頁)
つまり、日月の光明が一切世間を平等に照らして、闇を除くように。末法出現の御本仏は、人として世に生まれ、そのお振る舞いは、まさに太陽のような存在として一切衆生の闇を除くのであると。またその仏は汚泥のような世間の中にあって、常に清らかな蓮華のごとくであると、予言されているのです。
 また大聖人御自ら『四条金吾殿女房御返事』に、
「明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり」(御書 四六四頁)
と、日蓮こそ法華経に予言された本仏であり、日月のごとく衆生の闇を照らし、濁悪の世にあって常に蓮華のごとく清らかに法を説くのであると御教示です。
 このように、「日蓮」の名とはすなわち御本仏の名称なのです。
 さらに、日蓮正宗では「日蓮大聖人」と尊称いたしますが、大聖人は、『開目抄』に、
「仏世尊は実語の人なり、故に聖人・大人と号す。外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし。此等の人々に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは申すぞかし」(同 五二九頁)
と仰せられています。すなわち「大聖人」という呼称には、過去から未来にいたる三世の生命を正しく見極める「聖人」と、一切衆生を成仏へと導く偉大な仏様という「大人」の意義が込められているのです。他の日蓮宗等では「聖人」や「大菩薩」という呼称を用いますが、日蓮大聖人が一切に勝れた仏であるという意義を顕すことができません。つまり「聖人」という呼称では過去に聖人と言われた人と同列になり、混同する嫌いがあり、また「大菩薩」と下す謗法となるのです。
 私たちは、末法の御本仏は「日蓮」の御名前をもって御出現された大聖人以外にはおられないという大確信をもって信心に励むことが肝要です。