歴史の中の僧俗
  
富 木 常 忍
  
はじめに
 日蓮大聖人の御在世当時、大聖人と最も密接な関係にあり、絶大な信頼を受けていた御信徒の一人が富木常忍です。
 常忍は、大聖人が建長五(一二五三)年に立宗宣言された時、もしくはその直後からの檀越と考えられ、自らは大聖人の御指導のままに純粋な信仰に励みながら、大聖人の御一期を通じて、陰に陽に大聖人に外護の誠を尽くしました。
 大聖人より常忍に対し、十大部御書に数えられる『観心本尊抄』『法華取要抄』『四信五品抄』の重要御書をはじめ、御供養の返礼である御消息など、総数四十編を超える多くの御書が与えられています。
 特に、竜口法難や佐渡配流といった、大きな節目に当たる局面では、真っ先に一報を常忍に知らされています。
 また大聖入滅後、常忍が多くの御書を後世に伝承するために努力した功績は、七百年を経過した現在でも燦々と光彩を放っています。
 一方で常忍は、当時、大聖人および門下僧俗に迫害が吹きすさぶなか、「日蓮が一門」の重鎮・長老として、大聖人と門下、そして門下間をつなぐ大きな役割を果たしました。御書を拝すると、常忍の教化によって入居した曽谷教信、太田乗明、秋元太郎らをはじめとする下総地方の檀越を統率し、門下全体の中心的存在として、遺憾なく手腕を発揮していた常忍の姿が浮かび上がります。
 師弟相対・信伏随従、御本尊への強盛な信仰心、御供養の精神など、今に色あせることのない常忍の信仰姿勢を学んでいきたいと思います。

富木常忍の出自と家族

 常忍は、大聖人御在世当時、下総国葛飾郡八幡荘若宮(現在の千葉県市川市)に住し、鎌倉幕府の御家人、または千葉氏に仕えた被官とも言われていますが、資料が乏しく、さらに後世の誤った俗説等の影響もあり、詳しいことは判然としていません。
 常忍に対し、御書では「土木殿」「富木殿」「富木入道殿」「富木五郎入道」「富城入道殿」等と呼称されています。
 常忍の正式な名前は「富木五郎常忍」といい、入道して「常忍」を法号として用い、大聖入滅後「日常」と名乗りました。
 弘安元(一二七八)年八月に大聖人が常忍の子息・伊与房日頂師に授与された御本尊に、日興上人が、
「因幡国富城五郎入道の息伊与房日頂の舎弟寂仙房に之を付属す」(富要八一二二三)
と添書し、また『富士一跡門徒存知事』に、
「因幡国富城荘の本主今は常忍、下総国五郎入道日常に賜ふ」(御書一八七一)
と記されているように、富木氏の本貫地は因幡国法美郡富城庄(現在の鳥取県岩美郡)であったようです。
 一説には、富木常忍の父の代になんらかの理由で、因幡国より下総国葛飾郡八幡荘に移住し、大聖人の御在世当時には、常忍は同荘内の若宮の領主を務めていたと伝えられています。
 ちなみに「富木」の姓名も本領である「富城荘」に起因するものと理解できます。
 常忍には、妻の富木尼(妙常)との間に二人の子息がおり、長男(養子)はのちに六老僧の一人となった伊与房日頂師、次男は重須談所の初代学頭になった寂仙房日澄師です。
 二人は紆余曲折の末、晩年には改悔して日興上人の門下となり、富士門流の興隆に寄与しています。また建治二(一二七六)年二月に九十歳の高齢で亡くなった母の存在も確認できます。

大聖人との邂逅
 
 大聖人と常忍の出会いについて、詳細を記すものはありませんが、建長五年十二月九日の『富木殿御返事』には、
「よろこびて御とのびと給はりて候。ひるはみぐるしう候へば、よるまいり候はんと存じ候。ゆうさりとりのときばかりに給ふべく候。又御はたり候ひて法門をも御だんぎあるべく候」(同二五)
との文言が記されています。
 この内容から、建長五年十二月の時点で、大聖人と常忍とは既に旧知の関係にあり、法門に関する談義を行うほどの間柄であったこと、さらに常忍が大聖人の住居の近隣に住んでいたことが窺えます。
 常忍は大聖人と書状の往復を交わすのみならず、頻繁に大聖人のもとを訪れ「法華折伏・破権門理」の御法門を聴聞していたことは想像に難くありません。
 さて後年、大聖人は富木尼に対して、
「むかしはことにわびしく候ひし時より、やしなわれまいらせて候へば、ことにをんをもくをむひまいらせ候」(富城殿女房尼御前御書・同一四二九)
と述べられています。
 この御文より、大聖人が過去に富木家の方々に「養っていただいた」と感謝するほど、富木家との関係が深く、古かったと言えます。
 一説には、大聖人が畿内遊学中の建長三年に書写された『五輪九字明秘密義釈』を常忍が所持していたことから、宗旨建立以前からの関係であり、大聖人の遊学資金等を援助していたのではないかとの推察がありますが、真相は定かではありません。
 さらに、建長七年に常忍に与えられた『一生成仏抄』には、
「夫無始の生死を留めて、此の度決定して無上菩提を証せんと恩はゞ」(同四五)
とあります。
 この「此の度決定して無上菩提を証せん」との文言から、常忍の帰伏、もしくは帰伏直後の光景が浮かんできます。
 いずれにせよ、これらを総括すると、常忍は、宗旨建立前後には大聖人との邂逅を果たし、最初期の檀越となったと思われます。
 以降、常忍は、大聖人御入滅までの約三十年間、末法の御本仏大聖人を生涯にわたって外護した人生を送ることになります。