歴史の中の僧俗
  
富 木 常 忍 5
  
了性・思念との問答

 『常忍抄』(御書一二八三)によれば、弘安元(一二七八・弘安二年説もあり)年九月、常忍は了性・思念という天台宗の僧侶と法論を行っています。
 この問答は、
「此の方のまけなんども申しつけられなばいかんがし候べき」(御書一二八五)
との記述より、公的な場所で行われた法論であったことが窺えます。
 了性・思念は、当時、下総国真間(千葉県市川市)に住し、世間の人々より「広学多聞の者」として尊崇を受けていた学僧であったようです。彼らは、
「彼の了性と思念とは年来日蓮をそしるとうけ給はる」(同)
とあるように、以前より大聖人を誹謗していました。
 法論の内容は、まず常忍が、妙楽大師の『法華文句記』の「権を稟け界を出ずるを名づけて虚出と為す」(文句会本下三一五)の文を挙げて、法華経本門以外は無得道であると主張したのに対し、了性は「全く以て其の釈無し」(御書一二八三)と苦し紛れに反論しましたが、論談の結果、常忍に軍配が上がり、了性・思念は面目を失って行方をくらましたようです。
 この時、大聖人は常忍に対し、
「此より後は下総にては御法門候べからず。了性・思念をつめつる上は他人と御論候わば、かへりてあさくなりなん」(同一二八五)
と、今後は無用な法論をしないように制誠されています。これは、世間に名高い了性等を論破したのであるから、その他の人と法論すれば、かえって評価を下げ、浅く見られてしまうであろうと心配され、誡められたものと拝察されます。
 この『常忍抄』の内容より、天台教学に精通していた常忍の学識の高さが判ります。
 なお一説には、了性は、この地にあった天台宗寺院・弘法寺の僧侶で、この問答の敗北によって弘法寺を退出し、その後、弘法寺には、常忍の子・伊予房日頂が住持として入り、ここを拠点として弘教に励んだとも言われています。

妻・富木尼御前について
 
 常忍は、初婚の妻とは早くに死別したために、その後、大聖人が「富木尼御前(妙常)」と称された妻と再婚しました。
 この尼御前は、駿河国富士郡重須(静岡県富士宮市北山)の人と伝えられています。『可延定業御書』等によれば、尼御前は病弱であったようで、大聖人は再三にわたって尼の病気平癒を祈念されています。尼になったことも、病魔を払うためであった可能性が考えられます。
 ちなみに、この時には、
「しかも善医あり。中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり」(同七六〇)
とあるように、四条金吾の治療を受けるよう勧められています。
 こうした病弱な身でありながらも、よく常忍を支え、また、その母尼にもよく仕え、『富木尼御前御書』では、常忍より、尼御前が母をよく看病してくれたことに感謝する旨を大聖人に報告していたことが示されています。
 尼御前が常忍の妻として内助の功を尽くし、また孝養心の厚い女性であったことが窺えます。
 また尼御前は、
「尼ごぜん又法華経の行者なり」(同九五五)
とあるように、常忍と共に大聖人に帰依し、純真な信仰を貫いたようで、弘安二年には大聖人より御本尊を授与されています。
 晩年には、子息である日頂・日澄が日興上人に帰伏して富士重須に移ったことを機に、尼御前も故郷に帰って日興上人の教化を受け、重須の地で死去したと伝えられています。

二人の子息

大聖人の弘安元年八月の御本尊に、日興上人が
「因幡国富城五郎入道の息伊与房日頂の舎弟寂仙房に之を付属す」(富要八-二二二)
と添書されていることから「伊予房日頂」と「寂仙房日澄」が常忍の子息であったことが判ります。
 これについては、第十七世日精上人の『富士門家中見聞』の「日澄伝」にも、
 「五郎入道常忍、後に日常と号す、子息二人、兄は伊予阿闇梨日頂なり、則ち高祖直弟六人の内なり、其の次は寂仙房日澄是なり」(同五-二〇九)
と記されています。長子はのちに六老僧の一人となった伊与房日頂であり、次子は、のちに重須談所の初代学頭となった寂仙房日澄です。
 日頂は文永四(一二六七)年ごろ、大聖人の弟子となったと伝えられ、以後、修学に励んだようです。
 弘安五年十月八日、大聖人は御入滅に先立ち、減後の教団を担う高弟として「本弟子六人」を定められ、日頂はその一人に選定されています。
 伝承によれば、日頂は晩年、下総を去り、先に日興上人に帰伏していた舎弟・日澄を頼って重須に赴き、日興上人に改悔・帰伏したと言われています。
 日澄は、弘長二(一二六二)年、下総国若宮に生まれ、幼少にして民部日向の弟子として出家しました。
 日澄は日向に従い、日興上人離山後の身延に登りましたが、永仁年中に甲斐国下山郷(山梨県南巨摩郡身延町下山)の地頭・左衛門四郎光長が新堂を建立して一体仏を安置したことに疑問を抱き、日向がその一体仏を開眼供養する光景を見て日向と義絶し、重須へ赴いて日興上人に帰伏しました。
 以来、日興上人のもとで興学に努め、嘉元二(一三〇四)年には重須談所の初代学頭となっています。
 延慶二(一三〇九)年には、日興上人の命によって『富士一跡門徒存知事』の草案を作ったと言われています。
 日頂は、延慶三年三月十四日、重須において、四十九歳で逝去したようです。

おわりに ~常忍の晩年~

 弘安五年十月十三日、大聖人が御入滅され、常忍も御葬送の際には香炉を捧持して参列しています。
 しかし、身延に入山された日興上人とは疎遠となり、弘安八年に身延で営まれた大聖人の三回忌法要にも参詣することはありませんでした。
 その後、常忍は下総の自邸を寺とし、自身も出家して名を「日常」と改めました。そして、大聖人より賜った御書を後継に託し、正安元年三月二十日に八十四歳で逝去しました。
 現在、常忍が賜った御書だけではなく、大田乗明、曽谷教信等に与えられた御書も多くが常忍の邸であった中山法華経寺に伝えられています。これら多くの重要御書を後世に残した功績は、今もなお色褪せていません。
(おわり)