歴史の中の僧俗
  
富 木 常 忍 4
  
『観心本尊抄』の対告衆

 前回も述べたように、富木常忍は下総方面のみならず、重鎮として門下を牽引しながら、法難の最中にあった大聖人の外護に尽力し、佐渡在島中の大聖人から、数多くの御書を賜っています。
 その最たるものが、文永十(一二七三)年四月二十五日、佐渡一谷において著された『観心本尊抄』であり、翌二十六日、副状とともに賜っています。
当抄には、
「其の本尊の為体、本師の裟婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し(中略)正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(御書六五四)
として、末法の衆生が本尊とすべき文底下種の御本尊の相貌を、初めて具体的に説き明かされています。
 古来、前年の文永九年二月に著された「人本尊開顕の書」たる『開目抄』に対し、当抄は「法本尊開顕の書」と称されています。
 『観心本尊抄副状』には、
「此の事日蓮当身の大事なり。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。(中略)設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿れ」(同六六二)
と仰せられ、大聖人は当抄が重要な御法門を開示された御書であることを念記されています。
 また、この御文から、御述作直後には、当抄は常忍のほか、ごく少数の檀越しか目に触れることができなかったと考えられますが、その甚深の御法門は、大聖人の仏法を信解することができる御在世および末代の弟子・檀那に対する御教示であると言えましょう。

身延入山以降の富木殿賜書
 
 佐渡流罪を赦免された大聖人は、文永十一年三月二十六日、鎌倉に戻られました。そして四月八日には、平左衛門尉頼綱と対面され、諌暁をされています(第三国諌)。
 しかし、これも聞き入れられず、
「国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし、用ひずば山林に身を隠さんとおもひしなり」(下山御消息・同一一五三)
とあるように、鎌倉を出られ、身延に入山されました。この時も、入山後、直ちに常忍に一報を送り、
「いまださだまらずといえども、たいしはこの山中心中に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になて日本国に流浪すべきみにて候。又たちとゞまるみならばげざんに入り候べし」(富木殿御書・同七三〇)
との御心境を伝えられています。
 大聖人が身延に入山されたのちに常忍に与えられた御書として、『法華取要抄』(文永十一年)、『四信五品抄』(建治三年)等の十大部に挙げられる御書のほか、『聖人知三世事』(文永十一年)、『始聞仏乗義』(建治四年)、『常忍抄』(弘安元年)、『治病大小権実遠目』(同年)、『四菩薩造立抄』(弘安二年)等があります。常忍が賜った御書は、身延以前に授与された御書と合わせると、四十余編を数えます。
 これらより、常忍が天台・真言の教理にも通じ、相当の学解のあった人物であることが理解されます。また『富木殿御書』には、
「志有らん諸人は一処に緊集して御聴聞有るべきか」(同一一六九)
と仰せられていることから、門下の中心者であった常忍に送ることによって、その他の檀越との連携をも促されたものと拝せられます。つまり大聖人は、門下に対する伝達事項を常忍を通して伝えられていたと見ることができるのです。
 この御教示を拝した常忍と同志達が、集い合って御書を拝読していたことが思い浮かびます。
 一方で、大聖人が数々の御書を著されたのは、御在世当時の人々の教導のためであるとともに、滅後の僧俗に対する教示としての意義もありました。
 当時の時代情勢を考える時、大聖人の重要御書を後世に長く保管するのは、非常に困難なことであったと思われます。
 大聖人はこうした事情から、幕府の御家人である千葉氏に仕える社会的立場にあり、御化導の当初から大聖人の教導のままに強盛な信仰を貫いていた常忍こそ、後世まで聖教を伝えうる檀越であると判断され、多くの重要御書を送り、厳護を託されたものと拝されるのです。

常忍の釈迦仏造立

『真間釈迦仏御供養逐状』に、
「釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや」(同四二六)
とあるように、常忍は、文永七(一二七〇)年九月、釈迦仏を造立しています。
 言うまでもなく、大聖人の御法門において、釈尊の仏像を本意とされたことはありません。あくまでも三大秘法の御本尊を帰命依止の対境とするのが大聖人の御正意です。
 しかし、この時期は一宗弘通の初期であり、大聖人は、いまだ曼荼羅御本尊を御図顕されていませんでした。
 日本中に禅・念仏が浸透している当時にあって、大聖人は権実相対の上から権宗を破折し、法華経こそ真実の教えであることを顕揚されていました。つまり、民衆が阿弥陀仏を尊崇するなかで、権実雑乱の謗法を制止させる上から、常忍の釈迦仏造立についても、一時の尊敬の対象として認められたのです。
(つづく)