歴史の中の僧俗
  
富 木 常 忍 3
  
富木常忍の御供養について

 常忍の日蓮大聖人に対する渇仰恋慕の志は、常忍が賜った御書に記される御供養に顕著です。
 大聖人は御供養の尊さについて、
 「法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給ふ」
(上野殿御返事・御書七四五)
と仰せのように、御書の随所で御教示されています。
 御供養の意義を踏まえた上で、御在世当時の門下による御供養は、特に大聖人をはじめお弟子方の食をつなぎ、外護するという意味合いも兼ね備えていました。この真心からの御供養をされた様子が諸御書よりうかがえますが、なかでも外護という側面より常忍が担った役割は、他の檀越とは一線を画すものと言えます。
 大聖人が文永七(一二七〇)年に常忍に与えられたお手紙に、
「白米一ほかひ本斗六升たしかに給び候。ときれうも候はざりつるに悦び入り候。何事も見参にて申すべく候。 乃時 花押」(同四三五)
と認められた『富木殿御返事』があります。
 当抄の記述より、当時、大聖人が「斎料」(僧侶の斎に当てる金銭や食物のことで、斎とは仏事のあとの食事のこと)つま年、食料にすら困窮する生活状況にあり、これを心配した常忍が大聖人のもとに白米を送られたと考えられます。
 ちなみに、末尾に記される「乃時」とは「直ちに」という意味で、白米を届けた常忍の使者を待たせ、大聖人が取り急ぎ書状を認め、花押のみを記されて、使者に渡されたことを意味します。
 当抄の逼迫した文面から、大聖人に対して国家権力より様々な迫害が押し寄せるなか、災害・飢饉が相次ぎ、食料の調達もままならない大聖人の窮状を耳にされた常忍が、師匠の危機を救うべく迅速に白米を調達し、大聖人のもとに送り届けた光景が浮かびます。
 さらに『観心本尊得意抄』によれば、常忍は、大聖人が身延に入山された翌年の建治元(一二七五)年十一月、大聖人に厚綿の白小袖等を御供養しています。当時の大聖人の環境について、当抄には、
「身延山は知ろし食す如く冬は嵐はげしく、ふり積む雪は消えず、極寒の処にて候間、昼夜の行法もはだうすにては堪へ難く辛苦にて候に、此の小袖を著ては思ひ有るべからず候なり」(同九一四)
とあるように、非常に厳しい状況であったことが拝されます。山深い極寒の身延で不自由な生活を余儀なくされていた大聖人を心配し、少しでも尊崇する師匠の役に立ちたいと願った常忍の心境がうかがえます。
 そのほかにも常忍は、折に触れて衣料品を大聖人のもとに送られています。こうした事柄は、大聖人のお身体を案じた常忍の細やかな配慮を如実に示すものです。
 これに象徴されるように、常忍は、大聖人の生活環境に応じて、ことあるごとに必要と思われる品々を大聖人のもとに送り、また時には自らが携えて運ぶなど、絶え間ない御供養をもって外護の誠を尽くされました。
 常忍に与えられた御書より、常忍が大聖人に送った御供養の代表的なものを挙げると、
○白米(富木殿御返事)
○鵞目・青鳧(富木殿御返事、四信五品抄など)
○帷・墨・筆(観心本尊抄副状)
○白小袖(土木殿御返事、四菩薩造立抄)
○薄墨の衣・袈裟(四菩薩造立抄)
○衣の布・単衣(御衣布并御単衣御書)
などがあります。
 鵞目、青鳧とは当時の貨幣(銭)のことで、他の代表的な檀越であった池上兄弟、南条時光等が品物の御供養が多いのに比べ、常忍は金銭による御供養が多く見受けられます。
 また注目される品目として、墨・筆が挙げられます。すなわち大聖人が御著述や御消息などの御書や、曼荼羅御本尊を認められる際に使用された筆や墨の大半が、常忍の御供養によるものとも考えられるのです。
 特に佐渡期には、大聖人は『開目抄』『観心本尊抄』という大量の紙・墨を必要とした大部の重要御書をはじめ、その他多くの御書を記されていますが、大聖人の竜口法難、佐渡配流によって門下の大多数が退転した状況下で、これだけ多くの物質的な助力ができた檀越は、常忍をおいてほかには見当たりません。

大坊再建の尽力
 
 大聖人が身延において生活されていた庵室は、建治三年に一度修理を加えたものの、その後、老朽化が進み、さらには常時四十人から百人近い門弟が修行する道場としては、手狭となっていたようです。
 そのため大聖人は、かねてより富木常忍をはじめ弟子・檀那からの御供養を、大坊再建の資金として蓄えられていました。
 『地引御書』(御書一五七七)には、弘安四(一二八一)年十月ごろに建設が始まり、身延の地頭であった波木井一族の人々が中心となって工事が進められたことが記されています。当抄によれば、十一月一日には小坊と馬屋が完成し、八日に大坊の立柱を行い、九日・十日には屋根を葺き終え、そして二十三日・二十四日の二日間にわたって、好天のなか、ついに落成式が挙行された様子が記されています。
 この年は、大聖人御入滅の前年に当たり、既に大聖人は積年の疲労から体調も思わしくない状況にあった時期でもあり、大坊の落成を喜ばれたに違いありません。同抄には、
 「鎌倉においては、一千貫の大金をかけても、このように立派な大坊を造ることは不可能である」(同取意)
と称え、また落成式が盛大であった様子を「まるで京や鎌倉の繁華街のようであった」と記されています。
 大聖人は、この大事業において、常忍が建立資金として浄財を御供養したことに対し、
 「銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし」(富城入道殿御返事・同一五七三)
と仰せられ、この大坊が閻浮第一の法華の道場であり、大坊建立に際して赤誠の御供養をされた常忍の信心を称賛されています。
(つづく)