歴史の中の僧俗
  
富 木 常 忍 2
  
大聖人への外護を尽くした一生

 富木常忍は、まだ大聖人の門下が少ないころより、大聖人の御指南に従って師弟相対の信仰に励み、その生涯を大聖人に捧げたと言っても過言ではありません。
 当時、大聖人および門下に様々な迫害が起こり、数多の弟子・檀越が退転するなか、常忍は常に大聖人を恋慕渇仰し、御入滅に至るまで大聖人を外護しました。
 御書を拝すると、常忍が大聖人より全幅の信頼を得ていたことが明らかであり、その信頼関係は門下のなかでも、抜きんでた存在であったことが伺えます。

松葉ケ谷法難における外護

 大聖人は、宗旨建立より七年後の文応元(一二六〇)年七月十六日、鎌倉において『立正安国論』を著し、前の執権・北条時頼に上奏されました。その内容は「一切の災難の根本原因は、人民が正法に違背し、邪宗を信仰するところにある。正法に帰依しなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難がたちまちに起こるであろう」と国主を諌暁されたものでした。
 これに対し『下山御消息』に、
「御尋ねもなく御用ひもなかりし」(御書一一五〇)
とあるように、直後は幕府からの直接的な動きはなく、黙殺したかに思われましたが、一カ月後の同年八月二十七日の夜、突如、念仏僧を中心とした謗徒の群衆が、大聖人の殺害を謀り、松葉ケ谷の草庵に夜襲を掛けたのです。
 大聖人は、危うく難を免れましたが、なおも命を狙われる状況が続いていたため、ひとまず鎌倉を離れ、一時、下総国の常忍のもとに身を寄せられたようです。
 一説には、常忍は自邸の近くに堂宇を建立して大聖人をお迎えし、大聖人はこの地において説法を行い、周辺地域の折伏弘教を進められたとも言われています。このころ、常忍の縁により、のちに有力檀越となる曽谷教信、太田乗明、秋元太郎等が相次いで大聖人に帰依したと考えられています。

佐渡における外護
 
 特筆すべき事柄として、大聖人は、一期御化導の大きな節目において、その状況を常忍へと知らされました。
 文永八(一二七一)年の竜口法難の直後に常忍へ送られた『土木殿御返事』(同四七七)では、相模国依智・本間六郎左衛門重連邸にいることを記し、佐渡に向かわれる途上でも『寺泊御書』を送り、寺泊に滞在していることを伝えられています。
 同抄には、
「此の入道、佐渡国へ御供為すべきの由之を承り申す。然るべけれども用途と云ひ、かたがた煩ひ有るの故に之を還す。御志始めて之を申すに及ばず。人々に是くの如くに申させ給へ」(同四八七)
とあることから、常忍が佐渡に渡る大聖人を心配して従者を手配したようで、大聖人はこのお供をした入道を帰すに当たって謝意を述べられています。常忍は国家の罪人として流人生活を余儀なくされた大聖人のお立場を鑑みるとともに、この非常事態に大聖人の身近でお仕えできない自責の念を晴らしたかったに違いありません。少しでも大聖人のお役に立ち、身に添うが如く外護申し上げたいという熱い思いに溢れた差配であったことが窺えます。
 さて、常忍に宛てられた文永九年五月五日の『真言諸宗違目』では、「日蓮が御免を蒙らんと欲するの事を色に出だす弟子は不孝の者なり。敢へて後生を扶くべからず。各々此の旨を知れ」(同六〇二)
と誡められています。
 これは、大聖人が佐渡の塚原三昧堂に入られて一年も経たないうちに、鎌倉において大聖人の赦免運動を進める門下がいたため、大聖人は常忍に対し、この動向を厳しく制止されるとともに、御勘気が許されないことを嘆いてはいけないと仰せられています。
 竜口法難によって退転者が続出し、大聖人不在の状況下にあって、常忍を中心とした門下が幕府に対して大聖人赦免の運動を起こしたことは、師匠をお護り申し上げたいが故の行動であったと言えます。
 常忍のこうした足跡は、大聖人の竜口法難・佐渡配流を機に激化した逆境のなかを、門下の重鎮としての自覚に立ち、鎌倉の四条金吾等と連携して謗徒の権力に臆することなく立ち向かい、正法厳護の法戦に挑んでいたお姿を彷彿とさせる事蹟です。
 そして、佐渡配流赦免後、身延に入山された際にも、大聖人は常忍に『富木殿御書』を送り、鎌倉から身延を踏破された克明な道程などを知らされています。
 この『富木殿御書』の追伸には、
「けかち申すばかりなし。米一合もうらず。がししぬべし。此の御房たちもみなかへして但一人候べし」(同七三〇)
と記されており、当抄の内容より、常忍は身延に向かわれる大聖人に御供養をされ、この時にも従者を手配していたことが解ります。
 これらの記述より、常忍の御供養が大聖人に対する外護のみならず、随従していた弟子の生活をも支える尊い志であったことが拝せられます。
 ちなみに、弘安二(一二七九)年に熱原法難が惹起すると、常忍は大聖人の要請にお応えし、法難の渦中にあった滝泉寺の寺僧・越後房日弁師と下野房日秀師を下総国中山の自邸に迎え、かくまっています。近年の研究では、法難の詳細が記された『滝泉寺申状』の御真蹟に見える他筆(大聖人以外の人物による筆跡)部分を常忍の筆跡とする見方もあるようです。
 このように、大聖人と常忍は、浅からぬ因縁において、深い信頼で結ばれた師弟関係であったことが解ります。大聖人にとって、常忍は自らの教導を実践し、いかなる障魔をもはね除ける強靭な信仰を持った篤信の弟子、いざという時に最も頼ることのできる檀越であったことでしょう。

佐渡より常忍へ送られた御書

 大聖人は、文永八年十月から同十一年三月に赦免となるまで、二年半にわたる在島生活を送られましたが、その間、常忍に対して多くの御書を送られています。
 既述のように、大聖人は依智・寺泊・塚原など、転居された先々で、最初に常忍にお手紙を送られています。
 大聖人が佐渡在島中に著された御書は四十余編を数えますが、そのなかで常忍に与えられた御書を見ると、かの有名な『観心本尊抄』をはじめ、多くの重書を賜っています。そのほかにも文永九(一二七二)年三月の『佐渡御書』、四月の『富木殿御返事』、五月の『真言諸宗違目』、文永十年四月の『観心本尊抄副状』、七月の『富木殿御返事』、十一月の『土木殿御返事』、文永十一年一月の『法華行者値難事』等々、合計十一通あり、これは総数の四分の一の数にのぼります。佐渡期において、これほど多くの御書を賜った檀越はほかにはおらず、内容的にも、発迹顕本を遂げられた大聖人の御内証を明かされた甚深の法門が示されたものばかりです。
 特に、流人として日々を過ごされた大聖人の生活環境はたいへん逼迫していたようで、『佐渡御書』に、
「佐渡国は紙候はぬ上」(同五八三)
とあるように、お手紙に使う紙も満足に調達できなかった状況であったことが伺えます。
 佐渡期の御書が常忍に集中する理由の一つとして、同抄に、
「此の文を心ざしあらん人々は寄り合ふて御覧じ、料簡候ひて心なぐさませ給へ」(同)
 また、
「此の文は富木殿のかた、三郎左衛門殿、大蔵たうのつじ十郎入道殿等、さじきの尼御前、一々に見させ給ふべき人々の御中へなり」(同五八四)
と、常忍のもとに集まって御書を拝するように御教示されていることから、常忍を通じて当時の門下一同に与えられた内容であったことが解ります。
 物資にこと欠く劣悪な環境のなかで、弟子・檀那を思われた大聖人の御慈悲溢れるお姿が偲ばれるとともに、竜口法難・佐渡配流という、大聖人門下最大の危機にあって、門下の重鎮であった常忍が、動揺する檀越を激励しつつ、さらなる弘教に励んだ姿が想像できます。(つづく)