歴史の中の僧俗
  
高橋入道夫妻 1
  
高橋氏と由比・西山両氏の関係

 日蓮大聖人の檀越の一人、高橋六郎兵衛入道殿は、駿河国富士郡加島(現在の静岡県富士市本市場)に住んでいた鎌倉幕府の御家人です。ただし、両親の名や、高橋入道殿がいつ生まれたのかなど、詳しい内容は判りません。
 高橋家の家系は、武内宿禰を始祖とする紀氏の系統から分かれた大宅氏で、さらにその一族が駿河国庵原郡に住み、高橋氏を名乗りました。
 源頼朝が鎌倉幕府を開いたころ、高橋氏の祖先に当たる大宅大次郎光延は、駿河国の高橋(清水市付近)、由比(庵原郡由比町)、西山(富士郡芝川町)の領主となりました。さらに子息の光盛、光高、季光が、それぞれ高橋、由比、西山の家名を名乗っていました。現在も高橋、由比、西山という地名が残っています。三氏が幕府の御家人として、富士川周辺に領地を安堵され、緊密な連携を取り、支えあいながら生活を送ったことは想像に難くありません。

日興上人と高橋入道殿夫妻
 さて、日興上人の『弟子分本尊目録』には、
 「高橋六郎兵衛入道は、日興第一の、弟子なり」(歴全一-九二)
 「高橋六郎兵衛入道の後家尼は、日興の叔母なり」(同九三)
とあるように、高橋殿の妻は日興上人の叔母に当たります。
 総本山第五十九世日亨上人は高橋入道夫妻について、
 「富士那賀島荘の住であり、日興上人の叔母が其の妻である縁に依り興師の門より大聖への強信者であり、西山河合の由比一族は固より岩本実相寺内にも亦筑前房がをり、付近の熱原市庭寺の里民の信徒とも連絡し、遥か北方なる上野の南条家又は河(合)西(山)の人人とも共に四十九院の法難にも熱原の法難にも殆んど外護の本部となられた」
と、熱原法難において高橋入道夫妻の邸宅が弘教の一大拠点となっていたと仰せです。
 また第六十六世日達上人は、夫人の尊称について、
 「妙心尼は日興上人の叔母で、加島の高橋六郎兵衛殿の室(妻)であり、その夫が病気中即ち建治元年七月頃尼となり妙心と称し、入道の死後、建治三年十一月、幼少の一人娘を連れて生家西山の由比家に帰られ、窪に住して法号を持妙と宗祖から頂いて人々から窪尼と尊称されたので、結局、妙心尼と持妙尼と窪尼は同一である」
 とされ、夫人が持妙尼、窪尼、妙心尼と尊称された所以を詳しく御指南されています。
 さらに御隠尊日顕上人は、高橋入道夫妻が正法に帰依した時期について、
 「高橋入道殿という方は、大聖人様がおそらく鎌倉で法華経の弘通をあそばされた頃、すなわち文応元年から文永七年の間の頃に、進士善春とか四条金吾とか、その他いろいろな御信徒の方が鎌倉の弘通において大聖人様の御法門を聞いて信者になられているわけですが、この頃に信者になった方と思われます。おそらく、北条家の家人、御家人であったか、北条一門の人たちと縁故のある方であったと思われるのであります。それが内容の上から感じられます」(日顕上人御講義集七四)
と、四条金吾殿などが鎌倉で大聖人にお会いして入信したころ、高橋殿も帰依したのであろうと推測されています。夫妻の入信時期や背景については、次号でさらに詳しく述べます。

日興上人と高橋人道夫人

 前述のように、高橋入道殿の夫人は、夫の実家(高橋家)と同じく、紀氏系の大宅氏から分かれた駿河国西山の由比氏の出身であり、父は河合入道と呼ばれていました。
 河合入道殿は由比氏の一族ですが、富士川と芝川が合流する河合(現在の静岡県富士宮市)に住んでいたので、このように呼ばれました。河合入道殿は多くの子宝に恵まれましたが、その娘の一人・持妙尼が高橋家へ嫁いで、六郎兵衛入道殿の妻となりました。もう一人の娘(妙福)は、甲斐国の大井荘鰍沢(現在の山梨県富士川町)の大井橘六殿のもとに嫁ぎました。この大井橘六殿と夫人(妙福)を父母として、今から七百七十年前の寛元四(一二四六)年三月八日に、日興上人は御生誕あそばされたのです。
 本年二月二十一日には、日興上人御生誕七百七十年を奉祝し、同地にある日蓮正宗伯耆山白蓮寺に御法主日如上人猊下御揮毫の記念碑が建立され、記念法要が厳修されました。
 現在のところ、日興上人が大井橘六殿の長男なのか、次男なのかを知るすべはありませんが、三男は橘三郎光房と名乗っていたことは明らかです。日興上人は幼くして、父の橘六殿と死別されたので、弟の橘三郎殿と共に母に連れられ、西山の祖父河合殿のもとに身を寄せました。その後、母は武蔵国(現在の神奈川県横浜市港北区綱島)の綱島九郎太郎殿と再婚されたため、日興上人は、弟と共に河合殿に養育され、蒲原四十九院に登るまでの幼年期を、西山で過ごしました。
 このように、日興上人と由比家・高橋家は、深い縁で結ばれていましたので、のちに大聖人のお弟子となられた日興上人は、まず甲駿地域の折伏弘教に当たり、最初に高橋家や由比家などの縁者を教化され、それから次第に一門が正法正義に帰依されていったのです。
 日興上人の「弟子分帳」には、その一族が、
 「一、駿河国富士上方の河合少輔公日禅は、日興第一の弟子なり。仍て申し与ふる所件の如し(中略)
一、高橋六郎兵衛入道は、日興第一の弟子なり。仍て申し与ふる所件の如し(中略)
一、河合入道は、日興の祖父なり。仍て申し与ふる所件の如し。
一、富士西山河合四郎光家は、日興第一の弟子なり。仍て申し与ふる所件の如し。
一、遠江国前住甲斐国大井橘六の三男、橘三郎光房は、日興の舎弟なり。仍て申し与ふる所件の如し。
 一、武蔵国綱島九郎太郎入道は日興の継父なり。仍て申し与ふる所件の如し。但し此の御本尊は、佐土島に於ての御筆なり。死去の後、子息九郎次郎に之を伝う。
一、武蔵国綱島九郎太郎入道の子息九郎次郎時網は日興一腹の舎弟なり。仍て申し与ふる所件の如し。
一、富士上方河合入道の子息又次郎入道は、日興の叔父なり。仍て申し与ふる所件の如し(中略)
一、高橋六郎兵衛入道の後家尼は、日興の叔母なり。仍て与え申す所件の如し(中略)
一、同国高橋筑前房の女子豊前房の妻は、日興の弟子なり。仍て之を申し与ふ」
とあります。また『富士一跡門徒存知事』に、
 「撰時抄一巻(中略)駿河国西山由井某に賜ふ。正本は日興に上中二巻之在り」(御書一八七〇)
とあることから、一族の信心堅固な様子が伺えます。
 なお、日蓮大聖人御真筆の建治二年の御本尊(兵庫県本興寺蔵)に、
 「富士西山河合入道女子高橋六郎兵衛入道後家持妙尼に日興之を申し与ふ」
との日興上人の加筆が拝されます。日亨上人は高橋入道殿夫妻の信心について、
 「六郎兵衛入道は富士郡の南方なる賀島の人で、紀氏系の大宅氏たる庵原郡の高橋氏と同族で、その夫人は同大宅氏らしき由比氏の出で、興師の叔母であり、また富士河の東西に縁族多く、日興上人によりて入信した人々の中の長老で、大聖人よりも信頼せられた人であるが、史料にはほとんど子孫一族を見ざるは寂しいことである」
と仰せです。このように末裔の消息は不明ながら、高橋入道殿夫妻の姻戚関係者を整理しますと、左のような図となります。



 次号では、高橋入道夫妻の入信の背景および、大聖人から高橋入道殿夫妻が賜った御書の内容について述べてまいります。
(つづく)