歴史の中の僧俗
  
四 条 金 吾 1
  
 日蓮大聖人御在世当時において、大聖人門下の中心的な役割を果たした南条時光、富木常忍、池上宗仲らと並ぶ篤信の檀越こそ、四条金吾です。
 四条金吾は、北条家支流の名越光時の総領・江馬入道に仕える武士でした。まず四条金吾について、御書中より垣間見える人物像を伺ってみたいと思います。

 四条金吾の人物像

 四条金吾の名前は通称であり、正式には四条中務三郎左衛門尉頼基と言います。
 四条とは姓、中務は官名(当時の武家社会では、父親の官名を名前の上に付けて呼ぶのが通例)、三郎は三男の意、左衛門尉は本人の官職位、頼基は名前です。
 「金吾」という呼称は、唐の官名を用いた通称です。「左衛門尉」は本来、朝廷の警護に当たる衛門府の官職の一つでありましたが、鎌倉時代には名誉職的な官名として使われていました。この左衛門尉の役職を唐名、つまり中国における同様の役職名として「金吾」と呼び、左衛門尉の官職を金吾とも通称されるようになりました。
 ちなみに、大聖人門下にはもう一人「金吾」と呼ばれた檀越が登場します。『三大秘法抄』などの対告衆である下総に居住した大田金吾です。この方もまた、鎌倉幕府の問注所の役人と伝えられており、正式には大田五郎左衛門尉乗明と称しました。
 ところで、多くの御書のなかでは「四条金吾殿」と呼ばれており、そのほか、宛名として「四条三郎左衛門尉殿」「四条中務尉頼基」などの異称があります。
 現在まで伝わる四条金吾に対して個人的に与えられた御書は門下随一の数を誇り、その内容から四条金吾が鎌倉在住の檀越として大聖人門下を牽引した第一人者であったことが解ります。佐渡在島中に御述作された『開目抄』や『佐渡御書』は四条金吾が対告衆として名前が記されています。
 伝承によると、四条金吾は寛元三(一二四五)年生まれで、建長八(一二五六)年ごろに大聖人に帰依したとされており、文永八(一二七一)年の竜口法難の時は二十七歳であったことになります。
 後年、大聖人は、竜口法難の折に頚の座に連行された大聖人のもとに駆けつけた四条金吾の、師と共に死を覚悟したその信仰を、生涯忘れぬ思い出として述懐されています。
 このような行動は純粋であるが故の姿でしたが、御書を紐解くと、興味深い四条金吾の性格が浮かび上がります。
『四条金吾殿御返事』には、
「あなたは短気な人間であり、火が燃えるような性格である。必ず人に足をすくわれることがあるだろう」(御書一一七九取意)
と記され、また『崇峻天皇御書』には、
「あなたは常に怒りっぽい表情をしている。どんなに大事と思っても、短気な者には諸天の御加護はないことを知りなさい」(同一一七一取意)
との厳しい注意をされていたことを見ると、四条金吾は、直情径行型の性格の持ち主であったことが伺えます。
 特に『崇峻天皇御書』では、一途に物事に突き進む四条金吾に対し、崇峻天皇が短気な性格のために下臣に殺害された例や、孔子の九思一言(他人にひとこと話をするのに九回思いを巡らせて、相手に対して一番失礼のない言葉を選ぶ意)の故事などを用いて、日常の振る舞いについて具体的にこと細かく訓誡されています。
 短気であった四条金吾が、様々な迫害に遭いながらも大事に至ることなく、長期間にわたって耐えることができたのも、ひとえに大聖人の御教導の賜物であり、その御指示を師弟相対の信心をもって受けきり実践した結果と言えましょう。
 これらの御教示から、四条金吾は非常に真面目な性格であったことが明らかです。
 大聖人は、建治四(一二七八)年の『四条金吾殿御書』のなかで、弟子からの報告として、
 「主君の江馬氏のお供をする二十四、五人の侍のなかで、身長、顔、魂、馬、下人など、すべての要素にわたって金吾殿が第一である、あっぱれな男だと鎌倉中の子供達までもが噂をしている」(同一一九七取意)
と記されています。
 四条金吾が容姿・風貌もさることながら、人格的にも勝れた人物であるとの評価を周りから受けていたことが解ります。
 同抄では、同輩からの嫉みが起こることを予見されるとともに、生活の自重を強く促されています。また、四条金吾の身を深く案じられ、夜間の外出や帰宅の際の用心、火事の時や出仕の時、また酒席に招待された場合の配慮などについて、こと細かな指示をされています。
 四条金吾は、かなりお酒を好んだたようです。大聖人は『主君耳入此法門免与同罪事』に、
「かまへてかまへて御用心候べし。いよいよにくむ人々ねらひ候らん。御さかもり夜は一向に止め給へ。只女房と酒うち飲んで、なにの御不足あるべき。他人のひるの御さかもりおこたるべからず。酒を離れてねらうひま有るべからず。返す返す」(同七四四)
と仰せられ、夜間、外出中の酒盛りはなるべく避けるよう教えられています。さらに『四条金吾殿御返事』にも、
「たゞ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(同九九一)
と仰せです。すなわち「ただ妻と酒を酌み交わし、信心修行を中心とした生活をすべきである。苦を苦と悟り、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ自受法楽ではないか」との御意が拝せられます。
 命の危険にさらされていた四条金吾の身を案じた大聖人の御慈悲あふれる御指南です。
 さて『四条金吾殿御書』には、
「家へかへらんには、さきに人を入れて、とのわき・はしのした・むまやのしり・たかどの一切くらきところをみせて入るべし」(同一一九七)
とあります。
 この記述は、家に帰る時には身を守るために警戒するよう誡められたものですが、この記述から四条金吾の鎌倉の邸宅には「高殿(母屋・主殿)があり、そこには橋と言われた回廊が廻らされ、また馬小屋の存在がうかがえるなど、当時としてはかなり大きな屋敷であったこと、さらには大聖人が金吾宅に御下向されていたことが解ります。(つづく)

 また、大聖人御入滅ののちも、同じように日興上人へ御供養申し上げ、外護されました。私達は、こうした時光殿の信心の姿から、水の流れるような不退の信心、篤き外護の精神を学ぶことができます。
(つづく)