歴史の中の僧俗
  
四 条 金 吾 3
  
 今回は、四条金吾に関連する御書から、日蓮大聖人の四条金吾に対する絶大な信頼と期待を読み解きながら、後世の僧俗が明鏡とすべき師弟相対の姿を学んでいきたいと思います。

 大聖人からの絶対的な信頼

 現在に伝わる御書のなかで、大聖人と四条金吾の接点として、文永八(一二七一)年五月の『四条金吾女房御書』(御書四六四)が挙げられます。当抄によれば、四条金吾の妻が懐胎した際に、大聖人に御秘符を願われたようで、大聖人が、夫人の懐妊をたいへん喜ばれたお姿を彷彿とさせます。その二カ月後の『四条金吾殿御書』(御書四六九)は四条金吾に対する御書ですが、両抄を拝するかぎり、大聖人に帰依して間もない状況ではなく、既に大聖人の御教導のもとに信仰に励み、大聖人より信頼を受けている様子がうかがえます。
 そして前号でも紹介したように、四条金吾は、文永八年九月十二日の竜口法難の際には、『四条金吾殿御消息』に、
「日蓮にともなひて、法華経の行者として腹を切らんとの給ふ」(同四七九)
とあるように、殉死の覚悟で大聖人に同行されました。
 ちなみに『種々御振舞御書』(同一〇六〇)によれば、竜口の刑場において、いよいよ大聖人が頚の座に腰を下ろされたお姿を見て、四条金吾は「只今なり」と、泣き伏しました。
 この言葉は、師と共に命を断たんと決意した純粋な信心と、大聖人をお守りできない無念さを振り絞ったひとことであったと言えます。
 しかし大聖人は、
 「不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし」(同一〇六〇)
と、逆に四条金吾を叱咤激励されています。
 また、前出の『四条金吾殿御消息』は、九月二十一日に四条金吾に宛てられた書状であり、この時、大聖人は佐渡配流を前に、依智の本間邸に拘留されるという緊迫した状況にありました。
 この時に、四条金吾に対して御自身の安否を知らせておられることも、大聖人と四条金吾の固い信頼関係を示すものです。
 さて、大聖人が佐渡に御配流となったのち、鎌倉に残された大聖人門下への弾圧は職烈を極めました。
 『開目抄』に、
「少々の難はかずしらず、大事の難四度なり。二度はしばらくをく、王難すでに二度にをよぶ。今度はすでに我が身命に及ぶ。其の上、弟子といゐ檀那といゐ、わづかの聴聞の俗人なんど来たって重科に行なはる。謀反なんどの者のごとし」(同五三九)
と仰せのように、門下のみならず、大聖人の説法を聴聞した人々にまで、厳しい尋問の末に重い罪科が課せられるなど、あたかも国家の転覆を謀った罪人のような処遇でした。
 大聖人門下の壊滅を狙った国家権力による迫害が続き、
「千が九百九十九人は堕ちて候」(新尼御前御返事・同七六五)
と仰せのように、鎌倉では退転者が続出しました。
 しかし、大聖人の発迹顕本という重大な局面に立ち会った四条金吾は、改めて不退転の覚悟を固めるとともに、大聖人への外護の念をさらに強くしたことは想像に難くありません。
 一方で、佐渡に渡られた大聖人は、塚原三昧堂において、寒風吹きすさぶなか、物資にも事欠くなど、劣悪極まりない環境下にもかかわらず、『開目抄』を御述作されました。当抄は「人本尊開顕の書」と言われるように、御本仏の御化導における甚深の教義が示された御書であり、さらに大聖人は、
「かたみ」(同五六三)
として四条金吾の使者に託されています。
 これは、文永九年四月十日の『富木殿御返事』に、
「法門の事は先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ」(同五八四)
とあるように、『開目抄』が四条金吾のもとにある、との記述と符合します。
 大聖人不在という事態のなかで、勢いを増す謗徒の弾圧が鎌倉の大聖人門下に襲いかかる渦中において、四条金吾の果たした役割は重要なものでした。
 文永九年五月二日の『四条金吾殿御返事』には、
 「然るに貴辺法華経の行者となり、結句大難にもあひ、日蓮をもたすけ給ふ事、法師品の文に「遣化四衆・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷」と説き給ふ。此の中の優婆塞とは貴辺の事にあらずんばたれをかさゝむ。すでに法を聞いて信受して逆らはざればなり。不思議なり、不思議なり。(中略)強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。あしき名さえ流す、況んやよき名をや。」(同五九八)
と記されています。
 すなわち大聖人は、四条金吾の不自惜身命の外護に感謝されるとともに、「強盛な大信力を出だして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国すべての人達から謳われるようになりなさい」と激励されています。
 この間、四条金吾は、たびたび佐渡の大聖人のもとに金銭や日用品などをお届けし、外護の任を果たしていました。鎌倉の門下の中心として諸事に対応する立場にありながらも、常に大聖人に思いを馳せ、一心に信仰に励んだ四条金吾の姿は、後代の亀鏡です。
 文永十一年、佐渡配流から赦免になり、無事鎌倉に帰還された大聖人と対面した四条金吾の喜びは、いかばかりだったことでしょう。

 四条金吾の晩年

 さて、晩年の四条金吾の動向について、詳しいことは判っていません。一説には、四条家の領地の一つであった甲州内船(山梨県南部町内船)に移住し、余生を送ったとも伝えられています。
 内船は、大聖人が隠棲された身延山からもほど近い地域であり、渇仰恋慕の念押さえがたく、大聖人を追って移住したとの説、また弘安元年以降、体調を崩された大聖人の投薬のために身延近郊に移住したとの説もありますが、いずれも定かではありません。しかしながら、弘安元(一二七八)年以降、四条金吾に与えられた御書が激減していることからも、書状を必要としない環境にいた、すなわち大聖人のお側で常随給仕していたとも推測できます。
 弘安五年十月十三日、大聖人が御入滅され、翌十四日、御葬送が営まれました。『宗祖御遷化記録』(同一八六四)には、御葬送に四条金吾も参列し、幡を捧持する役を担ったことが記されています。

 四条金吾の兄弟について

 『種々御振舞御書』に、
「左衛門尉兄弟四人馬の口にとりつきて、こしごへたつの口にゆきぬ」(同一〇六〇)
とあり、四条金吾には、竜口法難の時点において、大聖人に帰依していた複数の兄弟がいたことが解ります。
 兄弟の存在については、『四条金吾御書』に、
「とのゝあにをとゝ」(同一三六二)
とあることからもうかがえるところです。
 しかし『崇峻天皇御書』に、
「竜象と殿の兄とは殿の御ためにはあしかりつる人ぞかし」(同二七二)
とあるように、建治三年頃には、兄は竜象と結託し、敵対する立場に陥っていたようです。これは『四条金吾殿御返事』の、
「兄弟にもすてられ」(同一二八七)
との記述からも、身内から迫害を受け、困難な状況下で信仰に励んだ四条金吾の姿が浮かび上がります。
 大聖人は四条金吾の立場を配慮され、折に触れて兄弟の妨害に翻弄されないよう御教示されています。
 さらに『呵責謗法滅罪抄』に、
「妹等を女と念はゞなどか孝養せられざるべき」(同七一八)
と仰せられ、また『四条金吾殿御書』にも、
「臨終までも心にかけしいもうとどもなれば」(同一一九八)
と仰せられていることから、四条金吾には妹がいたようです。
 当抄の内容から、この妹もまた、他の兄弟達と同様、四条金吾を悩ませる存在であったことがうかがえます。一族中、孤立無援という厳しい状況のなかで、大聖人の御教導に従って健気に信仰に励み、一方で門下の重鎮として他の檀越を励ました四条金吾の信心に多くのことを学ばされます。
 以上、四条金吾の信仰から学ぶべきことは、魔に翻弄されない不退転の信心と、どこまでも師弟相対を貫く信仰の大切さです。
 私達は、四条金吾の不惜身命の姿を常に見本として、御法主上人猊下の御指南のままに随力弘通してまいりましょう。
(つづく)